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 ところで、このグループとは別に行動していた人たちはどうなったのであろうか? 中共から、「残留を希望する者には、滞っている給与の支給を復活したうえ米の現物支給もするが、どうしても日本に帰国するという者に対しては、給与は一切支払わないうえ、運送費、食費、宿泊費等すべての費用は自分で負担すべし」と申し渡されたとき、これでは到底日本へは帰国できないと断念し、山東に留まる意思を表明した人たちがいた。

 この残留を表明した人たちには、大槻茂寿、緑川林造、高木智雄、岡田寛二、古賀政治、亥川繁好、西田房雄、中試以外で太田がいた。このグループでは緑川だけが1953年まで山東に留められ、他の人たちは47年夏ごろ前後して大連に帰ってきたと思われる。
 亥川繁好によれば、このグループは2班に分けられ、1班は中共政府の人たちと行動を共にし、亥川の属したもう1班は直ちに煙台に出、そこから大連に向うことになったという。しかし、渤海湾は国民党の海軍が封鎖していて、沖合いで軍艦が巡視活動をしていた。それに見つからないようにするためには、風雨の強い悪天候の夜を選んで出航するしかなかった。

 「沖合いに出るにしたがい、船は木の葉のように揺れ、雨は甲板に降り注いだ。しかし、下の船室に入ると、船が撃沈された場合出られないので、少しでも生き残れる可能性のある甲板で布団や毛布にくるまって時を過した。そのうちサーチライトの光が暗闇の彼方から時折船に当るので、何時砲撃されるかとビクビクしながら、煙突から吐き出される火の粉が気になってならなかった。
 緊張の数時間ののち封鎖線を突破したらしく、サーチライトが見えなくなったので、やっと胸を撫で下ろした。・・・
 大連の山々が見えはじめると、長かった1年間の山東の生活が走馬灯のように流れた。1年間風呂にも入らず魚も食べなかったが、これからはご飯に味噌汁も漬物も食べられる。電灯の光で夜が過せる。これから先もいろいろ苦労があるだろうが、人間らしい生活ができるような安心感を覚えた。」(亥川繁好「山東での思い出」『中試会々報』第21号、1995年)

 また、46年8月末に玲瓏金鉱を去って行った石黒正知、石黒正、橋本国重、横山修三、古賀政治、小森正三らのグループがあり、途中で別れた工静男、宮原泰幸、渡辺勅雄ら3人のグループがある。石黒らの一行が大連に帰って来るのは11月のことであるが、彼らについては、また章を改めて大連帰還までの足どりを追ってみたい。
 工、宮原、渡辺の3人グループのうち、宮原は大連に帰ることなくずっと山東省に留まった。工静男夫人の良子が後年大連に帰るまでのことを語っているが、渡辺とはどこかで別れ、工の家族だけ単独で大連に帰ってきたようである。

 「・・・護衛を一人つけてくれて煙台をめざした。馬や一輪車などを乗り継いでやっと煙台にたどり着いた。主人と護衛の人はずっと歩き通した。煙台からジャンクで出発したが風が吹かず、もどって次の日ようやく大連に着いた。場所は臨海浴場のあたりだと思う。歩いていると幸運にも知った人に会い対山寮に連れていってもらった。そこには星ヶ浦で昔から付き合っていた方が何人もいらして本当に安心した。」(工良子「遥かなる大連・山東」『中試会々報』第20号、1994年)

 工良子は大連帰還の時期について何も記していないが、鐘ヶ江重夫によれば、彼が5月に大連に帰還して元三共の工場研究所で働き始めたところ、1月して工静男氏も加わることになったと語っている。それからすると、工一家は恐らく6月か7月に大連に帰ってきたのであろう。

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