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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第21回

26	大連に帰される人、残される人
 井口・笠原らの密告により、中共政府から家宅捜索を受けた阿部良之助であったが、罪状に結びつくような証拠品は見つからず、一先ず事なきを得た。
 その夜、阿部は若い独身者たちから、井口の誤解の原因を聞いた。林家村における井口の監禁を阿部が救わなかったことを、井口一家がたいへん恨んでいるというのである。これを聞いた阿部は次のように洩らす。「大義親を滅せねばならないこの時に、小さな仁義にとらわれている井口君がひどく可哀想になってしまった。」
 また、独身者たちからこんな話も聞いた。3月13日の夜、呉家村に残る井口たちと南花カン村に移る阿部たち、それに独自の行動をとろうとする独身者たちの間でお金を分け合ったことがあった。阿部はそのとき、4万5千円の自分の取り分のうち2万円を独身者たちに餞別として贈った。このとき誰もが「関谷先生(阿部)が4万5千円しか金を持っていないなんて真赤な嘘だ」と思ったという。
 これを聞いて、阿部は「4万5千円しかない癖に、脱出者たちへ、ポンと2万円の餞別を贈った私の大尽気取りが、誤解の原因だったのだろう」と嘆息し、それにしてもこんなたわいのないことにより仲間内でいがみ合っているのが判ってみると、すべてが許せる気になってくるのであった。

 「井口博士や老川口、笠原君の誤解が、こんな子供じみた原因から起ったものであることを聞いて、私の彼らに対する不愉快さは、この瞬間に解消してしまった。一切は個人の罪ではない。闇黒な政治が生む疑心であり暗鬼である。敗戦が生んだ戯画の一片に過ぎない。」(『招かれざる国賓』220頁)

 1947年5月19日のことである。中共側の使者である宮が1月振りにやってきて告げた。「松本、藤田、山口、鐘ヶ江の四名は大連に帰すことになった」と。またこうも言った。「呉家村にいる笠原、川口も同様に大連に帰す」と。

 上記のうちの松本、山口、川口は中試のメンバーより先に玲瓏金鉱に留用されてきていた4名の元軍人たちのうちの3名である(山口、川口は中試のメンバーからはそれぞれ「小山口」「老川口」と呼ばれていた)。彼らは、中試の人たちと一緒に行動していたのであったが、阿部たちが日本への帰国を強く要求しはじめると、中共側はこの4名が帰国を煽動している元凶であるとみなし、彼らを中試の人々と切り離し、元の玲瓏金鉱に送り返してしまったのであった。しかし、再び中試のメンバーに合流することを許され、また阿部や井口のいる村にやって来たのである。なお、老川口が井口のいる呉家村に留まっているのは、彼が阿部に反旗を翻して井口と行動を共にすると宣言し、南花カン村に行くことを拒んだためである。4人のメンバーには、松本、小山口、老川口のほかに、もう一人鈴木がいたのであるが、彼の動静については不明である。

 さて、日本への帰国を断固要求した者のなかで、阿部と井口だけがこの選から洩れている。宮はそれについて、船の都合でそうなったのであって、1週間後には二人とその家族も同様に大連に帰す、と言い残して村を去って行った。
 5月23日、大連に帰る人たちが出発して行った。彼らは、中共の残留要請を拒否し日本へ帰せと要求し続けたがゆえに、大連に帰るまでの一切の費用は、すべて各自で負担しなければならなかった。しかし、いくつかに分散した中試出身者のグループのなかで、このグループが結局大連に一番早く帰ってきたようである。

 帰国要求グループで後に残されたのは、阿部と井口の2家族だけとなった。1週間後には彼らも大連に帰すと言っていたが、2週間が過ぎ3週間が過ぎても何の音沙汰もない。阿部は南花カン村で、井口は呉家村で、それぞれが中共政府からの連絡を今か今かと待っていた。
 しかし、6月が過ぎ、7月に入っても何の連絡も来ない。こうなると、日本への帰国を頑強に要求した阿部と井口に対する中共政府の報復措置ではないか――少なくとも2人はそう感じていた。彼らの家族は完全に生活費に窮してしまった。どうにもならなくなって、2人がとった行動は、それぞれ離れた村に住んでいながらまったく同じで、持っている衣類を村人に売って金に換えた。外国人である彼らにはそれ以外にお金を作る方法がなかったのである。2人の回想を見てみよう。

 「吾々は完全に金に窮してしまって、着物を売る事にした。老百姓(ロベシン)の服装は地味だから、派手な物は向かない。従って、女房や娘の着物の裏地が主に売られた。村の人は勿論、遠い村からまで買いに来てくれた。行李を一つ売って約十五万円程の金が入った。之では先が見えて居るから、復職を督促するのだが、一向にらちがあかない。」(阿部『招かれざる国賓』230頁)

 「底を突いて来たのは、生活の資金である。そこで、手持ちの衣類を売り捌いて、この資金を稼ぐことにした。村会長と村長に、例によって貢ぎ物を贈ってから、その旨を諒解してもらい、日時を農民達に伝達することを頼んでおいた。
 さて、その当日になると、私は家の土間にアンペラを敷き、その上に行李から引張り出した私達家族の衣類を、カッコよく並べて、お客様のご入来を待っていた。鉢巻をして張り切っている、私の姿がオカシイといって、側で手伝っていた家内が寂しく笑った。併し私の心中は悲壮であった。・・・
 やがて定刻になると、農村のおかみさんや娘連中が、ドット押し寄せて来て、狭い私の家は黒山の人だかりである。彼等は、自分の物、主人の物、子供の物と手当り次第に引っくり返して、気に入ったものを値切りながら買って行く。絹織物や毛織物はめずらしいせいか、一つ衣類で奪い合いの喧嘩を起こすような騒ぎである。・・・
 後には、カラになった行李が、侘しく転がっていた。私は鉢巻を取って、額の汗を拭いながら、売上金を数えている家内に聞いてみた。
 「イクラある?」
 「そうね・・・ザット十万近くありそうヨ」
 「ぢゃ、なんとか二、三か月はもつかな?」
 「そうネ・・・でも、タバコはもう止めていただくのネ」
 何とも言えない寂しさが、胸に迫って来た。いつまで、こんな生活が続くのだろうか?」
 (井口「ダモーイ」第23回)


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