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(山東省)
 
 一方、玲瓏金鉱にいて一行の到着を待っていた阿部良之助は、「昭和21年7月30日! 昼食後、陳博士は、大連日本人技術者の一行が龍口に到着したことを知らせてくれた」と記している(『招かれざる国賓』92頁)。
 
 船中での苦労はあったものの、山東行きを“山のあなたの桃源郷”を目指すかのように出発した石黒夫人は、上陸後の新鮮な感動を次のように語っている。

 ≪始めて見る山東の土地! 見馴れた大連の都会的環境とは全然異なった素朴な風景一色である。これから始められる新しい生活への好奇心からか不思議に淋しさは感じなかった。(中略)
 同行の人の中には中国語の上手な人や多少医学の知識をもっている人もおり心強かった。小休憩したとき同行の佐竹さんが「仕舞」を舞ってみんなの気持をほぐしてくれた。やがて私たちは数台のトラックに分乗して、山東半島のほぼ中央の宿泊施設がととのっている旧玲瓏(れいろう)金鉱にひとまず向かうことになり、トラックは7月末の太陽の直射をあびて砂ぼこりを立てて走り出した。(中略)
 玲瓏は、戦前三井が経営していた金鉱で、旧社宅がそのままで、私たちはそこにとりあえず家族別に分れて部屋を与えられ生活することになった。地形の関係からか、この社宅は段々になっており、真中が階段で両側が部屋になっていた。食堂は一番下で、私たちの部屋は上の方であった。
 中共側では私たちを招待客として迎えてくれ、肉をたくさん使った中国料理、餃子、包子などを出して歓待してくれた。
 質素な中国人は、祝祭日ぐらいしか餃子は作らないのに、私たちには毎日のように肉料理でもてなしてくれた。彼らとしては精いっぱいの歓待をしてくれたのだ。≫(『北斗星下の流浪』54〜57頁)

 「期待通り、関屋さんとその家族が、隠し切れぬ喜びを見せて、我々一行を迎えてくれた。汗と涙にぬれた顔を拭いもせず、私は関屋さんと再会の堅い握手を交わした。
 『関屋さん! 無事に辿り着いた全員を、あなたに引渡します。これで、団長としての私の任務は終りました』」(「ダモーイ」第6回)

 阿部によると、32人の技術者のうち半数の人が彼の指名した人々で、残りの半数はこれらの指名した人々の紹介によって参加した人たちであるという

 ここでの食事について、石黒夫人は「私たちには毎日のように肉料理でもてなしてくれた」と回想しているが、佐竹は、到着後の同じ所での食生活についてまったく違った印象を語っている。

 「粗食の生活は私の身体の衰弱だけではなく、家族や一行の人達にも見え始め、坂道を登り下りする足どりも遅く、先ず夜盲症となって夕暮れになると、眼が見えなくなって、転倒することが多くなった。トウモロコシのパン(ピンズ)と塩汁に油を2,3滴加えたものと、生ネギ1,2本の毎日の献立ではどうにもならない。」(『貧しい科学者の一灯』73頁)

 同じときの同じ待遇について語っていながら、心に受けとめた印象の相違から、記憶はこうも違うものになるのである。

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