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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第7回

6 山東上陸

 大連港を出港したのは、7月27日の未明であった。彼らの乗ったジャンクは小蒸気船に引っ張られて岸壁を離れた。しかし、港の外にはソ連の哨戒艇が警戒に当たっていた。リーダー役を仰せつかった井口の回想記を見てみよう。

 「渺茫たる海原へ出たとき私は『脱出は成功したぞ』と心に叫び、大きな希望に胸をふくらませた。ところが、一隻の哨戒艇が、停止の合図をしながら、我々の後を全速力で追いかけて来たのである。捕まれば、密航のかどで銃殺はまぬかれまい。脱出の興奮で騒がしかった船内が、急に静かになった。
 近づいて来る哨戒艇を見ると、大きなソ連将校の両側に、自動小銃を構えた、小柄な兵士が二人立っている。いきなり、我々のジャンク目がけて、バラバラと威嚇射撃を始めた。一瞬、船内に異様な緊張が流れ、幼児の泣き声ばかりが静寂を破る。覚悟を決めた私は  『よしッ! 俺が出るから、皆んなそのままじっとしていて下さい』
と、叫びながら立ち上がった。
 ジャンクにピッタリ横づけになった哨戒艇から、3人のソ連将兵と1人の中国人が乗り込んで来た。迎えに出た私と周通訳は、2人の兵士が突きつける銃口に釘付けされてしまい、赤鬼のような恐ろしい顔をした将校の尋問を受けた。
 『あまえ達は何処へ行くのか』
 『煙台へ参ります』
 『総勢何人か』
 『百二十八名です』
 『何しに行くのか』
 『私達は山東省生れで、故郷へ帰るところです』

 向うの通訳が、ソ連語を中国語に直すのとほとんど同時に、名通訳の周君が、日本語で囁いてくれるので、中国語から日本語への通訳は、全然目立たなかったし、私の返事も、ほとんど同時に、周君が中国語で伝えてくれた。

 最後に、私と周君のからだを服の上から触って武器のないことを確かめた後、将校は始めてニッコリして
 
 『よろしい、故郷への土産は沢山の子供だネ。行きなさい』
  と言いながら、クルリと背を向けて、哨戒艇へ乗り移って行ってしまった。」(「ダモーイ」第5、6回)
 
 ソ連軍の将兵には、中国語と日本語が区別できなかったかもしれないが、ソ連軍側の中国人通訳は、井口をはじめとする乗船者が日本人であることに気付かなかったはずはない。――そう思っていたら、最近入手したばかりの石黒正の回想記に、あとで周通訳が、「あのソ連側通訳は中共の人らしい」と語ったというエピソードが出ている。(石黒正「終戦後の大連脱出、山東行きの秘話」『満鉄中試会会報』第26号、2000年)
  それで、初めて納得できる。つまり、ソ連側通訳は事情を知っている中共側の人だったので、それで救われたのである。

 石黒夫人は、幼い子供を4人も抱えた母親として、子供たちの思いがけない言動で、日本人であることがばれないようにと、そのことにのみ細心の注意を払っていた。

 ≪「子供を泣かせないようにしてください。ソ連船があちこちで見張っていますから・・・日本人が乗っていることが分かったら大へんなんですよ。ようくようく気をつけてください。暫らくの辛抱ですから・・・我慢して下さい」
 と、日本語のよく分かる中国人が何回もくどいように注意する。6歳を頭に4人もの幼い子がいる私はたいへん緊張の連続であった。声を立てようとする子供たちの口を私は掌で抑えた。家にいるときでも常にかん高い声を出す洋子の口を私は何回となくふさいだ。(中略)
 目的の港、煙台(芝罘)は国府軍との内戦の影響で危険な状勢になっており、下りる予定が変更された。船の中でずいぶん待たされてその間スモモの差し入れがあったりした。やがて船は再び動き出した。翌日煙台より北の龍口(ロンコウ)という小さな港に着いた。
 中共側からの指示で、日本人の生命の安全のために私たちは南方人(広東方面の人)ということにされ、みな中国服を着ていた。夫の仮の中国名は「宋学正」であった。行李や布団袋には墨で黒々と「宋学正」と書かれてある。≫(『北斗星下の流浪』52〜53頁)

 井口・佐竹・石黒正と3人の回想記を突き合わせて見ると、龍口に上陸したのは、煙台に着いた“翌日”ではなく、翌々日の7月29日であったようだ。煙台に着いても着岸できず煙台沖で1泊、翌日夕方龍口に着くが、上陸しないで龍口沖で1泊、つまり上陸するまでに船は2晩も海上で碇泊させられたのである。しかも、龍口では人々の寝静まっている午前2時の上陸を促がされ、小学校の講堂らしきところへ連れて行かれ、そこでまた1日足止めされることになった。

 山東行きは、このように出発からして参加者たちを不安に陥らせる旅となった。佐竹義継によれば、この漂流中早くも「騙された!」という人たちが出てくる始末で、今回の山東行きの責任を託された井口は、必死になって同僚たちを説得した。

 「『今度の大連脱出は、中国共産党・八路軍から、我々満鉄中央試験所の有能な技術者とその家族を安全な山東省に呼び寄せ、新中国の科学発展に寄与してほしい、との要請があって、この挙に出たのである。

 大連にいてもソ連兵の占領下では生命の保障は確保できず、やがてはシベリア送りか、餓死よりほかに道はない。それより同じアジア民族の中国人民のために働いて、祖国日本の復興を待って帰ろうではないか。』
 と井口氏は切々と語ってくれた。」(『貧しい科学者の一灯』72頁)


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