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 この終戦直後の大連の混乱ぶりを、井口俊夫は、最初に入ってきたソ連兵が、ベルリン攻撃に使われた兵隊たちで、「戦火をくぐり血に餓えた囚人部隊」であったため、特にひどい状況が繰り広げられたのだとして、次のように描いている。
  
 「腰から上は素裸で、毛だらけの身体と野獣のような眼つきは、市民を震え上がらせるのに充分であったが、その上、刺青をした腕に拳銃を握って、ところ構わず撃ちまくるので、市内は修羅の巷と化してしまった。掠奪・暴行・強姦等あらゆる不祥事が、白昼公然と行われ、夜は銃声と女の悲鳴が、頻りに聞えるようになってきた。日本人の代表者達は、婦女子に対する暴行を許し難いとして、大広場のヤマトホテルに、時の防衛司令官ヤマノフ少将を訪れ、治安の回復を懇願したところ、
  『我々は未だ戦闘状態にあるのだ。婦女の暴行のごときは、洗えばすぐ直るもので、問題にする君達は、一体何を考えているのか』
  と一喝されて、ホウホウの体で引下ってしまった。以来「洗えば直る」という言葉が広まって、女子の貞操観念が低下して行ったことは事実であるが、それと共に、敗戦の暗雲は益々低く、重苦しく私達の頭上に垂れ下ってきた。
中央試験所では、女子従業員を全員解雇してしまって、男ばかりの殺風景な世帯になった。」(井口俊夫「ダモーイ」第2回)
  
 進駐したソ連軍の部隊は思うままに日本人の住宅を占拠し、追われた日本人はまだ占拠されていない日本人住宅に同居することを余儀なくされ、狭いところに大勢の家族がひしめき合うという光景がいたるところに見られた。
  
 また、ソ連軍は、日本人から一切の通信手段を奪った。ラジオ類はすべて没収、電話も不通になり、外部からの情報はことごとく遮断されてしまった。終戦から一年近くたちながら、日本への帰国の目処もまったく立たない日々が続いていた。
終戦後のこうした大連の様子は、この時期を少女として大連で送った富永孝子の労作『大連 空白の六百日』(新評論、1986年)に生き生きと描き出されている。
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