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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第3回

2 石黒一家の生活

 終戦まで石黒正一家は大連市内の紀伊町のアパートに暮らしていたが、ソ連軍の侵攻とともにそこを引き払い、上葭(かみよし)町の満鉄の社宅に住む兄・石黒正知のところに同居することになった。兄も弟と同じく中試の燃料課の所員であった。狭い社宅に両家族併せて10人の大所帯の生活がはじまった。
 敗戦後、大連の日本人のほとんどは収入の道を断たれ、所持品を街頭に持ち出して、売れるものは何でも売った。中試では、終戦の8月に向こう3ヶ月分の俸給をまとめて支給したが、あとにもさきにも、これが最後の給料となった。しかし、それで半年も生活が維持できるわけではない。中試の職員たちも、試験所に席だけ置いて内職をするものが目立ってきた。先ずはその頃の生活ぶりを石黒恵智『北斗星下の流浪』で見てみよう。

 ≪終戦後、この大連で急に収入の道がとざされた私たち日本人は、露天で衣類を売ったり、大福や寿司などを作ったりしながら、しんぼう強く帰国の日を待ち望んでいた。
 夫は戦後も中央試験所員として時々出勤してはいたが、給料も出るのか出ないのか、先の見通しも全くつかず心細い状態であったから、何か生活の手段を考えねばならなくなった。家族十人の糊口をつなぐのはたいへんなことだった。そこで考えついたのが香油だった。
 夫と夫の兄はいっしょに力を合わせて、自宅で香油の製造を始めた。このささやかな仕事による収入が、両家族十人の生活を支えてくれた。
 私は、夫の母や嫂(あによめ)とかわるがわるに、近くの満鉄社宅を回って香油の空瓶の回収をした。その空瓶を家に持ち帰りきれいに洗う。こうした作業もちょっと大変な仕事であった。嫂も私も、もうすぐ赤ん坊が生れそうな体だったががんばりつづけた。
 夫と義兄は、質の良い植物性油と香料を仕入れてきた。活性炭で脱臭脱色し、濾過紙でこす。この作業はていねいに何回もくりかえしていた。
 きれいになった香油の瓶に、脱臭された油を入れ、匂いの良い上等の香料を入れると出来上がる。この出来上がる過程を見ているのもちょっと面白いものであった。(中略)
 売りに行くのはたいてい私の役目であった。私には商売のセンスなど少しも無かったが、どうしたわけか、私が売りに行くとまたたく間にパッと売れてしまうのだった。ただ考えられることは、売る場所を選ぶ感がよくはたらいたように思う。買ってくれそうな客の一人に、「香油、いかがですか」と、一言二言いっただけでたいていその場所で半分位売れることが多かった。売っているうちに客が一人増え二人増えしてしだいに客の数が増えて、私は客にぐるりと取りまかれてしまう。回りの客は手に手に私から香油の瓶をうけとり、かならず匂いをたしかめる。
 「いい匂いねえ。つけてかたまることはないでしょうねえ」とか、「前に買った髪油は、櫛が通らなくなるほどかたまるのよ。この髪油は色を見ても純粋そうだし質が良さそうですねえ」などと、二、三人の客がまわりの客の気を誘うような言葉を口々に言ってくれるので、そのことが私を助けてくれた。人間の心理は面白いもので、買う気がなかった人達まで“買わないと損をする”ような気持になるらしかった。
 殊に中国人は髪油をよく使う習慣があるとみえて何人かの客が買ってくれた。
 「這箇東西頂好」(この品は上等だ)
 などと言いながら、喜んだ表情で買ってゆく後姿を見るのは嬉しいものであった。≫(『北斗星下の流浪』28〜31頁)


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