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14 帰国

 1953年の春休みを、私は蘭州の宿舎で過ごしていましたが、そこで帰国が本決まりになったことを知りました。
  
1987年、大連での再会。左、程文英氏。
天水を出発したのは、3月13日のことです。駅には同学たちや鉄道関係者が詰め掛けて盛大な歓送をしてくれました。(私が親しくしていた程文英君は都合があって来られませんでしたが、数年後手紙と写真を日本まで送ってくれ、消息が得られました。彼には、1987年に大連で再会することができました。)
 私たちは、西安、鄭州、徐州を経て、そこから南下して南京を経て上海へ出ました。上海には1週間ほど滞在しましたが、たいそう歓待されました。私たちがこの年の大量帰国の第一陣であったようですが、日本からも社会党の代議士などが出迎えに上海まで来ていました。
 上海でもっとも驚いたのは、デパートに行ったときでした。バックグラウンド・ミュージックがかかっていて、エスカレーターが動いているのです。カルチャーショックを受けましたね。また、若い女性が旗袍(チーパオ。チャイナドレス)を着て闊歩しているのには度肝を抜かれました。共産中国が成立してまだ4年しか経っていませんし、私たちは人民服しか見てきませんでしたから、よくこんなものが許されているのかと本当にびっくりしました。
 3月20日、私たちは迎えにきた高砂丸に乗船して舞鶴に向いました。玄界灘を過ぎて日本海沿いに航行中、鳥取のあたりでしょうか、松並木が見えたときは感動しました。「ああ、やっと日本に帰ってきた!」という実感がわきましたね。
 舞鶴に着いてもすぐには上陸できず、検疫のために少し留められましたが、荷物等の持ち物の検査は何もなく、まったくのフリーパスでした。上海を出航するときにも、中国側の荷物の検査はまったくありませんでした。
 日本の土を踏んだときの私の気持ちは、戦争が終わって8年間も――少年から青年にかけての8年間は長いです――ずーっと中国に残って日本人として生きてきて、半分嬉しくもあり半分悲しくもあるというのが正直なところでした。
 舞鶴には佐賀の祖父がのぼり旗を持って迎えに来てくれていました。
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