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インタビューリスト


橋村武司氏 第10回(最終回) インタビューを終えて


  光陰矢の如し。天水での紅顔の美少年も喜寿を迎える。よくぞここまでとの思い一入。
 人はみな数奇な運命に翻弄されているように思う。一つ一つの節目があり今の自分がある。偶然といえば言えなくもないが、必然も潜んでいるように思う――そうなったのは自分の意志にあったのではないかと。喜寿を迎えられるなんて思いもよらなかった! なぜあの時に・・・・との思いもあるが、一方で「生かされているのか?」との思いがいつも頭を過ぎる。そこにはワケがあるのではないか。果たせない使命の重圧が肩に掛かる。

 私の「残留日誌」はいまは存在しない。中国から帰国する時、当局からの指示に従い、天水甘谷旅館の庭先で、涙しながら燃してしまったからである。今を去る56年前のことである。
 1946年、引揚げを目前に強制留用になり、身の不運・憤懣を自作インキで古紙の裏に綴った。帰国するまでの7年間そこに書き記したことは、今も脳裏に鮮明に焼き付いている。貼り付けた資料のなかには恋文まがいの手紙もあり、青春の断片の一つ一つが懐かしく思い出される。
 当局の指示は、(1)家族以外の集合写真、(2)自筆の記録(政治的な)、(3)共産主義に関する出版物、の持ち出し禁止。理由は“帰国後、日本官憲に迫害される材料になる”と説明された。しかし、実際には上海の通関でも日本の舞鶴の通関でも簡素なチェックのみでほとんどフリーパスに近かった。それだけに、今は幻となってしまった残留日誌が惜しまれてならない。

 祖父卯作は、戦時中“今(昭和18年)は満州の方が安全”と判断したが、それは外れた! たった一人の男の孫を手放すには相当の決心が必要だったと思われる。対馬には私の山があったそうだ。しかし、戦後の土地開放で、不在地主として処分されたと聞いた。祖父の無念さは察して余りある。溺愛と厳格なしつけ、武士道教育で私を鍛えてくれた。引揚げの地舞鶴に老骨を押し一人上り旗を掲げて迎えに来てくれた心意気に感動した。

 母の“再婚”はショックだった。「俺は母を守るために残ったのに・・・・。不貞!」人生の機微を知らなかった。戦後の中国はひとしく貧しかった。食べるために仕事をした。最初は大工の見習い――道具の大切さを教わった。紡績工場――中国側と作業時間短縮の競争に明け暮れた。カマス織り――請負仕事、自活の知恵を知る。第四軍靴工場――布靴を縫う麻縄を綯う、機械を改良し(私の実用新案第一号)生産量を2倍にして労働模範に選ばれた。鶴崗炭鉱――斜坑2,000メートル、先はソ連領、人生道場、生きる知恵と自信がつく。――これらを転々とした。余暇に独学で、代数、幾何、三角、物理、化学を勉強した。食物にも飢えたが、学問にも飢えた。

 戦中、ハルピンの旅順工大の先輩の家で、電灯線をアンテナに鉱石ラジオで人間の声を聞き、驚嘆・感動した。戦後、ラジオを修理する人とモーターを修理できる人は神様のように思えた。周りでは、ばたばたと元官僚、高官の方々が亡くなって行くのに・・・・・。
 私の進路はここで決まった。手に職を付け、逞しく生きる術を学ぶことを。そして、身体の大切さを改めて知った。「みかんが食べたい」と言い、「お母さんに会いたい」と呟きながら逝く友に何もしてやれなかった無念さ。地獄絵だったが大きな教訓を得た。
 14歳から17歳、身長は年々数センチも伸び、たくましく成長した。ズボンの裾を継ぎ足す母には、苦しみもあったと思うが、喜びの眼差しがあった。一面、一人前の男としての自負に満ちた自分があった。特に、鶴岡炭鉱から帰ってからは怖いものはなかった。「太陽の下でなら何でもできる」――自分の腕一本で稼いで食べて行ける自信がつき、今日まで実践し生きてきた。

 
桜の苗を植える橋村氏(『天水晩報』2009年4月14日)
天水を去って56年。一昨夜、第九次天水訪問の旅を終え帰国した(団員23名)。天水の変化は目を見張るばかりである。藉河の一部が堰き止められ湖に、そして高層ビルが林立している。かつての城壁は跡形もない。しかし、故郷天水はいつ来ても懐かしい! 南谷正直元会長の分骨を供養した後、桜花園で花見を楽しんだ。それを現地の人たちが盛り上げてくれて、中日友好交流の輪が広がった。今回は特に桜の木を植樹した。数年後は見事な花を咲かせるであろう。

 1983年、天水会は第一次天水訪問を挙行した。後半の第六次からは、私も生業から開放され、連続参加している。第六次は1999年9月、中日友好桜花園の開園記念式典が盛大に挙行された後、ウルムチで開校55周年記念式典に参加した(開校50周年の時は現役だったため、一夜だけのトンボ帰り)。60周年記念式典は最も盛大で、校内に「東瀛(日本)の間」を設けていただき、私たちも当時の思い出の品々を寄贈展示した。後輩のためには図書を寄贈した。奇しくも今年は65周年記念、ウルムチから代表して周金富同学が、腰痛をおして遠路天水まで来てくれた。不容易(生やさしいことではない)! 熱情である。蘭州からの同窓生を交え、一夜を通し旧交を温めた。
 翌日、旧居を尋ね歩いた結果、二人の同学の旧居が壊される寸前で見つかった。快哉! 
 一方北門近くの甘谷旅館(私の旧居)は跡形もなくビルに変身していた。残念! 
 裏庭の駱駝の溜まり場はバスターミナルに変身していた。ランプの下で名産の落花生を食べ過ぎては鼻血を流しながら読書に耽った小部屋はもうない。穴居生活をした石馬坪の柵を夜な夜な越え、狼が出没するというブッシュを抜け、はだしで藉河を渡り、南門から入場して元宵ダンゴを頬張り、黄酒を飲み、半地下の薄暗い蕎麦屋の美味に酔いしれた店は、もうない! 過去は想い出に、現実は実在する。その後、学生寮に入り勉学と生活を共にし多くの友を得た。頭をつき合わせて寝た郭紹礼君(中国科学院)は北京プロジェクトの生みの親である。

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