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上野通夫氏 第4回 10.帰国の途に〜12.残留孤児と厚生省引揚援護局


10 帰国の途に

  1950年6月、朝鮮戦争が始まると三反運動も始まりました。浪費、腐敗、汚職の三つに反対する運動です。各人が自分のやったことを申告するんです。私もなんか言わないといかんと思って、八路軍時代、鉄砲の弾500発ちょろまかして酒買ったなんて書いたら、弁償しろ、と言われてね。
  都合悪い時、よくわからないとゴマかそうと思ったら、わしが通訳やるさかい言う人がなんぼでもおるからね。日本人、中国人わけへだてなかったですね。わけへだてがないのは日常の生活でもそうで、私が仕事終わって日本人のところに行って酒ばっかり飲んでいたら、係長が心配して、からだこわすぞ、といってくれたりしました。
  帰国が1953年、昭和28年。20年にいきましたから8年ですか。大阪、三輪タクシーが走ってました。バタバタですね。落ち着いて活気もあって戦前にもどったなあ、思いました。朝鮮戦争は終わっていましたが、朝鮮特需が残っていた時分ですね。帰国後、2人の友人が訪ねてきたんですが、そのうち1人は警察官、私が赤がかったこと言うもんだから来なくなりましたね。
  共産党にも入ったんですよ。その後共産党もややこしくなってきましてね。中国と縁切りになった共産党はもうええわってやめました。志賀義雄もパージされましたしね。

 
8 天皇制教育との葛藤

  結局わかったことは、食習慣もちがうけれど、人の情けというものは変わらないということですね。八路軍をやめて一人残った時でも、炊事班の連中は金もないのに靴一足贈ってくれたり、53年に日本に帰る時も、日本はアメリカに占領されていいことないから中国で生活しろってね。困った時は助けてくれるし、人間はどこへ行っても同じもんやなあてね。
  ところが中国人をチャンコロなどと軽蔑する人がまだ多いですね。私は浙江大学で中国語を学習する傍ら、日本語会話を教えていたのですが、大学の行事に日本の企業がお金を寄付したんです。その会社の社員が大学に来たとき、私が教えた子が通訳でついてまわったんですよ。その社員の態度が大きかったんでしょう、50万ぐらい寄付したからって、偉そうにするな、と怒っていました。
  別の件ですが、農業関係の調査に来た関東の大学の教授が、通訳が欲しいというので私の学生を紹介したら1週間も通訳させて、雀の涙みたいな金しか渡さない。生活程度で上にみたり、下にみたり、いいことないですね。


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