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33 赦免されて帰国

――これまで伺ってきた朝鮮戦争当時のお話は、永年の収容所でのことですか?

西陵の収容所

 大体がそうですね。1950年12月から52年5月まで永年にいましたが、この間がちょうど朝鮮戦争のさなかでした。それから西陵の収容所に移ります。ここは、河北省易県の永寧山の麓にある清朝皇帝の陵です。
 西陵へ行きましてからは、労働はあまり激しくありませんし、学習はやはり社会発展史ですが、今度は日本の歴史と結びつけた学習になりました。また、スポーツやリクリエーションの時間も多くなりました。

西陵の収容所での相撲大会
 あるとき、人民解放軍と共に大同まで一緒に行軍したことがありましたが、私と同じような立場にある小隊長の行動をみていると、日本軍の場合と全然違うのに驚きました。小隊長は、単調な行軍が続くと、自から歌を歌って兵士たちを励ましたり、ある場合には小隊長自ら踊りも踊ったりするのです。そして、落伍しそうな兵士がいると、小隊長が代わって銃や背嚢を持ってやったりしていました。日本軍では考えられないことです。
 何日か一緒に行軍していると、兵士たちがその小隊長に敬意と信頼を寄せていることがよくわかります。兵士の中から、人望があり判断力・指導力のある者がそうした小隊長に選ばれていくシステムができているのですね。日本のように、学校を出て幹部候補生になった者が指導者になっていくのとは全然違うのです。
 私は、日本軍、国民党軍、共産党軍と三つの軍隊を体験しましたが、共産党の軍隊には敵わないと思いました。
 この頃になって、“頑固分子”であった私も、ようやくこれまでの自分の考えが間違っていたと思うようになっていました。そして、二つの戦争の本質をはっきり知ることができました。
 一つは、「大東亜共栄圏のための聖戦」と信じて疑わなかった戦争が、中国と東アジアに対して行った暴虐きわまる侵略戦争であったということです。
 もう一つ、日本が無条件降伏をした後、私たちが山西省に残留し、軍閥・閻錫山に加担して戦った戦争は、中国人民の解放事業を妨害した反革命戦争であったということです。
 この二つの戦争は、人類社会の発展に逆らった不正義の戦争でした。私は、この戦争の手先になって、中国人民に償うことのできない罪を犯しました。

 1954年8月19日、中国政府人民革命軍事委員会は、戦争犯罪を犯した私たち元日本軍人を赦免する旨の命令を公布しました。
 「西井健一ら417名の元日本軍人は、いずれも以前日本侵略者の中国侵略戦争に加わり、戦争中に各種の犯罪を犯すと共に、日本侵略者の降伏後は蒋介石、閻錫山一味の軍隊に加わり、ひきつづき中国人民に敵対してきた者であって、その罪状は重大である」
 「各種の犯罪を犯した右の417名の元日本軍人は、本来ならばそれ相応の処罰を加えるべきであるが、すでに3年ないし5年にわたって管制を受け、その間自己の犯した罪を認めたことにかんがみ、とくに中国人民解放軍の寛大政策にもとづいて西井健一ら417名を赦免するものである」
 この命令を、西陵で伝えられた私たちは、喜びにあふれ、人民解放軍の寛大政策に感激しました。
 今までは「同学們」(学員のみなさん)とよばれていたのが、この日から晴れて「朋友們」(友人のみなさん)と呼ばれるようになりました。
山下さんたちの乗った興安丸
 また、人民解放軍は、私たちの帰国を祝って盛大な送別会も開いてくれました。
 帰国の日、塘沽(タンクー)の新港埠頭で、学習中たいへんお世話になった政治員が、私の手を握り、
 「山下、いよいよお別れだね。一家団欒の平和な暮らしができるよう祈っているよ。君に、最後のはなむけの言葉を贈ろう。
 やがて日本人民の手によって綴られるであろう歴史のなかで、山下正男は日本勤労人民の良き息子、良き働き手であったと記されるように――」
 私は大きくうなずき、彼の手を固く握り返して乗船しました。日本に帰ってから、今日までずっと、私は彼のこの言葉を反芻しながら生きてきました。

 私たちの乗った興安丸の船内では、しきりに春日八郎の「お富さん」が流されていました。
 「死んだはずだよお富さん、生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のお富さん――」
 繰り返し聞かされているうちに、私たちは誰からともなく、「これは我々をからかっている歌ではないか! こんなふざけた歌ばかり流すのは怪しからん!」というので、船長に抗議に行こうということになりました。この歌がいま日本で大流行している歌であることなど、私たちは知る由もありません。抗議された船長の方は、何で抗議に来たのかわからずポカンとしていたというような一幕もありました。
 船は翌日から台風の接近で大荒れでした。興安丸は、9月27日無事舞鶴に着きましたが、函館港ではその前日洞爺丸が沈没し、修学旅行生を含めて大勢が亡くなっていました。

熱海駅で歓迎を受ける山下さん
 私にとっては、10年8ヶ月ぶりの帰国でした。しかし、日本に着いて最初に知ったのは、最愛の母が10ヶ月前に亡くなっていたということでした。4歳で養子になってから16年間、友だちから羨まれるほど大事に育ててくれました。軍隊に入ってから帰国まで10年余の長い間、毎日陰膳を据えて待っていてくれたそうです。ほんとうに申し訳ありませんでした。不孝を心からお詫びします。



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