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山下正男氏 第18回:32.国際義勇軍〜33.赦免されて帰国

32 国際義勇軍

 朝鮮戦争がまだ続いていた頃、『人民日報』に「国際義勇軍が日本で組織され、台湾に派遣される陰謀計画が進行中である」という記事が出たことがありました。
 この計画の総元締は元支那派遣軍の総司令官であった岡村寧次であり、募集の責任者は元第1軍司令官・澄田賚四郎でした。その他、元北支那方面軍司令官・根本博、右翼の児玉誉士夫、それに元第1軍参謀長・山岡道武も加わっていました。岡村は蒋介石に、澄田は閻錫山にそれぞれ協力した“功績”により、戦犯を免れていました。
 国民党の敗北が決定的になっていた1949年4月、蒋介石は、腹心の曹士澂(そうしちょう)少将を東京へ派遣し、大陸に反攻するための反共部隊を日本で組織させようと計画しました。曹は中国残留中の岡村寧次を世話していましたので、先ず岡村を訪ねてその計画を打ち明けました。岡村は計画に賛成し、「蒋介石総統に恩返しをしたいから、必ず優秀な将校を組織して台湾へ送り、国民政府を支持する」と約束しました。

 この陰謀計画に絡んだ「海烈号事件」を、マスコミで最初に大きく取り上げたのは『毎日新聞』でした。1949年10月30日の『毎日』は「あばかれた海烈号事件――5億円の密輸企む」という記事を出します。新聞記事は、その年の8月24日横浜港に入港した中国船海烈号から5億円にのぼる禁制品が見つかった、取調べを行うと、5・15事件の中心人物であった三上卓・元海軍中尉や関東軍の嘱託をしていた阪田誠盛らが「日本再建計画」のための資金調達に行った密輸事件であることが判明した、と報じています。
 さらに、翌50年1月号の雑誌『真相』が、「海烈号事件の背後を洗う――義勇軍編成の国際的陰謀」と題して大きな特集を組みます。これによれば、海烈号事件は三上や阪田に止まるものではなく、中国から帰還した軍人たちの「大陸反攻」に義勇軍を派遣しようという計画に絡むものであるとして、岡村寧次にはじまって山西省残留を企んだ第1軍の首脳たち、澄田賚四郎・山岡道武たちとのつながりを詳細に報道しています。
 『真相』によれば、49年4月29日、右翼の学生たちで組織された「海外同胞引揚救護学生同盟」の同盟員38名が「義勇兵」の第1陣として飛行機で台湾に飛び立ち、6月には学生同盟員40名と中島飛行機の技術者8名が第2陣として台湾に赴いたということです。

 義勇軍の台湾派遣は国会でも問題になりました。参議院本会議で共産党の細川嘉六が質問したのに対し、吉田茂首相は、次のように答弁しました。
 「台湾へ義勇軍として参加したものがあるという噂はずいぶん流布されているが、私どもの調査によれば、日本人義勇軍が日本で編成されているという事実は発見されない。」
 「中国人李ヌ源(りせいげん)らによる日本人募兵運動に、一部の日本人がこれに応じて渡航するにいたったにすぎないもののようで、伝えられるように大規模な募兵運動が行われたものとは認められない。」

 この一大陰謀事件については、NHKのドキュメントで取り上げられたこともありますし、事件の顛末を追った単行本も出ています(中村祐悦『白団――台湾軍をつくった日本軍将校たち』芙蓉書房出版、2006年)。そういう点では、事件の実態も相当明らかになっていますので、ここではその経緯だけを簡単に述べておきましょう。

 49年9月10日、東京高輪の旅館に、岡村の呼び掛けに応じて陸軍大学校出身の元高級将校と国民政府軍の将校たち16名が参集しました。彼らがここに集まった趣旨は、「いまや赤魔共産主義が中国大陸を風靡しようとしている。両国同志は反共アジア防衛のために決起する」というもので、この会合で軍事顧問団「白団」(バイダン)が結成されました。
 国民政府代表が曹士澂、団長が富田直亮(元第23軍参謀・少将)、保証人が岡村寧次、募兵の選考は、澄田賚四郎が責任者で、十川次郎(元第5軍司令官・中将)、及川古四郎(元海軍大将・海軍大学校校長)と岡村の忠実な部下小笠原清元参謀らが協力しました。
 団長の富田直亮は曹士澂から中国名・白鴻亮を貰いましたので、白将軍の名をとって、この軍事顧問団を「白団」と名付けました。
 49年秋の深夜、船底に元軍人たちから成る「軍事顧問団」を乗せた貨物船が、密かに横浜を出港して台湾へ向いましたが、日本の治安当局は気づかぬふりをしました。アメリカも目をつぶりました。
 団長の富田直亮と団員の荒竹国光、杉田俊三の3名は、GHQ情報部員と名乗って、飛行機を利用し香港経由で台湾へ渡りました。こうして、第1陣17名が台湾へ渡りました。彼らは全員が、『三国志』に基づいた中国名を曹士澂から与えられました。これ以後20年間にわたって、延べ83名の日本人軍事顧問団が送り込まれます。
 「白団」を台湾へ送るとき、岡村は蒋介石に書状を送り、「白団派遣は、今後の軍事工作の第一歩にすぎず、自分の最終構想は、日本で元軍人を結集して反共義勇軍を組織して大陸奪還の戦いに参加することです」と書きました。

 「白団」の支援組織となったのは冨士倶楽部でした。これは、岡村や及川が音頭をとって1952年に作られましたが、実態は「白団」の後方部隊として、戦史・戦略・戦術についての資料収集をおこなう軍事研究所・図書館です。ここでは、国民政府軍の幹部教育のため、日本の自衛隊(当時は警察予備隊)にいる元軍人を通じて部外秘の教科書を入手するなど、種々の軍事資料を集めました。
 この冨士倶楽部は約10年間存続しましたが、その間に収集された軍事図書は7千冊以上、研究資料は5千点以上が作成され、台湾にも送られました。
 この倶楽部の活動の中心人物は、服部卓四郎(元中将・陸軍参謀本部作戦課長)と西浦進(元支那派遣軍総司令部参謀)です。彼らは、GHQ参謀第2部(G2)の庇護の下で、共産主義の脅威に備えて再軍備計画を研究していました。冨士倶楽部の協力者のなかには、高山岩男(元京都大学教授)のような哲学者もいました。

 「白団」は、金門島から対岸の福建省に反攻上陸する綿密な計画を立てて、図上訓練を繰り返していました。
 蒋介石は、大陸から台湾に撤退した翌年の1950年、「1年準備、2年反攻、3年掃蕩、5年成功」の大陸反攻スローガンを掲げました。そして、「白団」の招聘によってそれが実現できるものと信じていました。「白団」へもっとも期待したのは、蒋介石その人でした
 しかし、「白団」はやがて米国軍事顧問団に取って代わられます。そして、米ソ冷戦構造のなかで、台湾は「反共の砦」として、アメリカから多大の軍事支援を受けることになりますが、皮肉なことに、蒋介石の大陸反攻の夢をことごとに阻止したのも、またアメリカでした。
 「白団」は、1968年12月31日に解散します。解散はしましたが、団員のうち23名は自衛隊の枢要な地位につきました。


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