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31 「坦白」

――戦後中国に留用されたり抑留された人たちは、多くの人が中国共産党によって思想改造され、“洗脳”されて帰ってきたとよく聞きますが、実際にどういう教育・学習が行われたのか、これまで具体的に書かれたものを私はあまり見たことがありません。そのあたりをお話ししていただけますでしょうか。

 学習したのは主に「社会発展史」でした。これは、原始共産制時代から奴隷社会、封建社会、資本主義社会、社会主義社会へと発展してゆくすじ道が、とても平易に説かれていました。それを貫いている思想は、一言でいえば、社会は英雄や豪傑たちが作ったのではなくて、働く大衆が営々と作り出したものである。労働こそが、文化を発展させ、社会を建設し、世界を創造するものなのだ。ところが、主人公であるはずの大衆は歴史のなかで長い間虐げられてきた、というような内容ですね。
 しかし、学習にはもう一つ、1日の労働や学習に対して自己反省をし、また他人からの批判を受ける学習会がありました。自分で田圃や畑の仕事をしてみれば、確かによく分かるのですが、勤労大衆が苦労して作ったものを奪い取ったり荒らしたりすることが、いかに罪深いことであるかということを、学習会を通して我々に自覚させるわけです。
 こうした学習会を重ねていったうえで、自分がやってきたことを「坦白」するということになります。
 日本軍は「糧秣作戦」と称して、農村を襲って略奪し、強姦し、さらにそこが八路軍の根拠地にならないようにと焼き払ってしまう、そういうことをしばしばやったわけですが、それがどんなに罪深いことであるかを一人ひとりが自覚したうえで、「坦白」するということになります。「坦白」とは、そうした罪行を一つ一つ思い出して具体的に書くのです。
 そうして書いたものを、中国側の指導員も読みますが、また我々の仲間みんなの前で読み上げます。そうすると、略奪の同じ場所に立ち会っていた者もいますから、相互批判によってそのときの事実に対する修正がなされます。事実を過小に書くのは、当然厳しく批判されます。しかしなかには、事実をオーバーに書いて、それによって自らの反省度を強調しようとする者がいますが、これもよくありません。彼らが求めるのは、あくまでも“事実”です。
 ですから、同じ班にその時の“討伐”に参加した者がいないと、その証言を別の班のその“討伐”に参加していた者のところへ廻して、徹底して調査検討するということをやっていました。
 こうしたことを何度も繰り返してゆくと、自分たちがどういうことを行ったかという“事実”が確定してきます。
 そのうえで、あの戦争がどういうものであったか、日本が行ったことはどういうことであったかということを相互に学習し、討論します。

 しかし、私自身はそのような学習のしかたに随分抵抗を覚えました。私は、軍隊に現役志願をするまでには至らなかったものの、かなり強烈な軍国主義青年でしたから、自分が戦争に出て行くときに考えたこと思ったことが全部間違っていたとは、とても思えませんでした。確かに日本軍は酷いことをやった。それは紛れもない事実だけれども、中国人と手を組んで新しいアジアを作るという理想をずっと信じてきたし、それは正しいと、戦争に敗れた現在も思っている――全てが間違っていたというならば、それでは特攻隊で死んでいった仲間たちはどうなるのか? あれも犯罪である、ということになってしまうのか?――とてもそんな結論に至ることは承服できませんでした。
 私がこうした思想改造に反発を覚えた一方には、一緒に捕虜になったなかに、すぐに分かったようなふりをして、日本国家も自分もすべて間違っていたと反省する「赤大根」連中が随分いたからです。当人は本当は何も変わっていない、中は元のまま真っ白であるのに、表面だけ赤くなったように見せているのです。
 私は、性格的にも、分かっていないことを分かったかのように振舞うことができないたちなのですね。だから、年中批判されていました。学習会のあったときなど、夜9時の消灯が過ぎてから、沈(しん)政治員から呼び出され、近くの川のほとりで懇々と諭されたことが何度もありました。
 政治員というのは、共産党のなかの思想問題担当の幹部です。沈政治員は日本の法政大学に留学した人でしたが、学習会の私の発言を聞いていて、どうしても私を正しい方向にもっていかなければいけないと思ったようですね。当時の私は彼らにとっては“箸にも棒にもかからない頑固分子”といった存在だったようです。それで、そのような“個別指導”を何度も受けることになりました。
 しかし、彼らはそのような私にも粘り強く、時間をかけて説得しました。よく“耐心”と言っていましたが、この“耐心”(忍耐強く、根気よく、の意)こそ彼らの基本姿勢だったように思います。

 永年にいたとき、朝鮮戦争が始まりましたが、その頃私は時事学習の担当をしていて、毎日『人民日報』から朝鮮戦争の戦況に関する記事を抜き出しては皆に説明をしていました。
 当時、中国共産党のなかで「整風運動」が進められていましたが、それが収容所にも波及してきて、収容所における「学習破壊活動」を取り締まらなければならない、ということが言われだしたのです。
 そうしたら、驚いたことに、私が「学習破壊活動」の扇動者であるというのです。私は、分からないことは分からないと言ってはいましたが、人を扇動するとか組織するとかということは、まったく身に覚えのないことでした。しかし、このために学習会とか討論会があると、私は批判の槍玉にあげられました。
 中国側では、また「学習破壊活動」と結びつけて、「帰国思想」を批判しました。日本人収容者のなかに起こってくる「日本に帰りたい」という帰国願望に対しては絶えず注意を払っていて、彼らはそれを「帰国思想」と呼んで批判しました。
 彼らの言うには、今は朝鮮戦争のさなかで、敵対している日本から船が来られるはずがない、いくら帰りたいといってもそれはできないのだ。そして何よりも、平和な時代が訪れたとき、諸君は中国の人民と友達になれるような人間になっていなければいけない。そのような条件が整わないでいて、いくら帰りたいと不満を言ったり悩んだりしても、それはただ学習を妨げるだけである、というものでした。
 その言い分は分からないでもありませんが、次のようなことまでが「帰国思想」だといって問題にされたことがありました。――収容者のあいだで壁新聞を出していましたが、そのカットに船が波を蹴って走っている絵が載ったことがありました。このカットが問題だというのです。「これは、日本に帰りたいという帰国思想の表れである」と。しかも、それだけではないのです。「船体には黒いところに白い2本の線がある。これは日本の警察予備隊の帽子と同じである。したがって、単に帰りたいという願望だけではなく、再びかつての軍国主義の野望を遂げようということの表れである」と言うのです。
 私は、そのカットを描いた男を知っていましたが、とてもそういう意図があるとは感じられませんでした。こういうケースは、どう見ても行きすぎとしか思えませんでした。


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