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山下正男氏 第16回:28.和平会談決裂〜29.残留日本軍の終焉

28 和平会談決裂

 北京では、4月1日から内戦を終結させるための共産党と国民党の和平会談が始まりました。共産党からは周恩来を代表とする7名の委員、国民党からは張治中を代表とする7名の委員が出席して話し合いがもたれました。
 圧倒的勝利を背景に会談に臨む共産党と、和平会談に反対する強硬派を抑えて交渉の席についた国民党とのあいだで激しい応酬が続きます。
 共産党は、(1)連合政権の樹立、(2)毛沢東を国家主席とする、(3)蒋介石を戦犯として処罰する、という3点を譲れない線として主張しましたが、国民党は、これは合意ではなく無理押しであるとして頑強に反発し、会談はついに決裂しました。

 一方、山西省においても人民解放軍は山西軍に最後の和平交渉をもちかけてきました。
 しかし、閻錫山が南京に去った後全軍を指揮していた孫楚(そんそ)は、これを受諾せず、和解の最後通牒を蹴って“徹底抗戦”を主張しました。
 解放軍はまた今村、城野、岩田らに書信を送り、“起義”(山西軍に反旗を翻すこと)を呼び掛けましたが、彼らは拒否しました。

 4月21日、和平会談が決裂に終ったのをみて、毛沢東と朱徳は連名で全国に向け「進軍命令」を発します。
 解放軍は、南京の揚子江北岸に100万の大軍が和平会談の行方を見守って待機していましたが、「進軍命令」を受けて対岸への強行突破をはかりました。南京を守っていた国府軍は2日で壊滅し、国民党支配の中心都市は呆気なく陥落してしまいました。

 太原も最後の日が来ました。「赤海の孤島」と言われるようになった太原城は、30万余の解放軍の大軍に完全に包囲されました。城外の飛行場も占拠されて、もはや空輸による脱出はできません。
 解放軍の太原総攻撃が開始されたのは、「進軍命令」が発せられたその当日、4月21日です。そのとき、私は休息のため城内の宿舎に帰っていました。しかし、双塔寺の陣地が危ないと聞いて、同僚の山本健次と2人で、米1俵をサイドカーに積み込んで首義門を出ようとしました。ところが、首義門の衛兵は、「解放軍が門の数百メートルに近づいている」と言って車を通しません。
 やむなく、サイドカーを降り、米を置いて、塹壕伝いにやっと双塔寺陣地にたどり着きました。
 山西軍(閻錫山軍)側の砲兵陣地は、城外、城壁、城内と3段に構えられていました。双塔寺陣地は城外東南の丘陵上にあり、この塔の4階に砲兵軍指揮所があって総督導官の岩田清一がおりました。塔の最上階にある観測所から見渡すと、4キロ平方の太原城とその周辺がすべて一望の下に入ります。
 いまや解放軍30万の大軍が太原城を完全に包囲しています。双塔寺陣地周辺の解放軍も城壁に向って前進しています。まるで双塔寺陣地など眼中にないかのようです。

双塔寺に向かう人民解放軍第63軍
 ところが、4月22日夜明け前、私は観測所の窓から塔の周辺を見てびっくりしました。陣地の周りには塔に近づけないように、落ちたら這い上がれない5メートルぐらいの深い塹壕が二重に作られていました。驚いたことに、その塹壕に向って、解放軍が突入するための通路壕がいくつも作られているのです。昨夕まではありませんでした。解放軍の民兵が一晩のうちに作ったのでしょう。そしてすでに、その壕には多数の解放軍兵士が突入を待機しているではありませんか。
 ところが、山西軍の歩哨たちはまだ気づいていません。私は慌てて指揮所に報告して応戦体制をとりました。払暁とともに、解放軍第63軍の猛攻撃が始まりました。山西軍の野砲は零距離射撃で応戦しましたが、間に合いませんでした。

連行される岩田清一
 赤と緑の尾を引く信号弾が4階の砲兵軍指揮所の外壁に当たると、そこを狙って15センチ榴弾砲がガンガン打ち込まれてきました。塔は厚い大きな石で築かれていて堅固ですが、徐々に崩れ、砲煙は塔内に立ちこめてきました。まるで、ドラム缶のなかに入っているのを外からハンマーでぶっ叩かれているような感じです。岩田と私たちは居たたまれず、叩き出されるように外へ出ました。

 若い解放軍の兵士が、背の高い岩田に目をつけ、「お前が岩田だな」と言って飛びかかり、首にかけていた双眼鏡をすばやく取り上げました。「戦犯岩田がいたぞ! 岩田を捕えたぞ!」と叫ぶと、境内を占領していた解放軍の兵士たちの間に、どっと歓声が沸き起こりました。
 岩田と私たちは、なす術もなく解放軍に投降しました。携帯していた武器はすべて取られてしまいました。
 指揮官らしい人物は、「武器はすべて没収するが、私物は没収しない。もしなくなった私物があれば、届け出るように」と指示しました。夕刻には、取られた私物はすべて戻ってきました。
 「新たな指示が出るまでは、中で待ちなさい。逃亡は許さないが、陣地内は自由に動いてよろしい」と言われ、食事も解放軍の兵士と同じように与えられました。


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