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 ところで、この「号外」を出した翌日、4月16日に各兵団に発信された参謀長の命令電報は次のように言います。
 「部隊ノ帰還ニ方(あた)リ本年3月15日以降除隊セル者ニシテ復帰ヲ希望スル者アラバ 各独立部隊長ニ於テ部隊ノ状況其他ヲ勘案シタル上 各隊ニ於テ差支エナキニ於テハ除隊ヲ取消シ原所属ニ復帰セシメテ帰還セシムルコトヲ得ル如ク定メラル」(「乙集参考電第357号」)
 この電報は、特務団に入った者の中から次々と元の部隊へ復帰し、帰国組に加わる者が続出していることを窺わせます。
 それにしても、「部隊ノ状況其他ヲ勘案シ」とか「各隊ニ於テ差支エナキニ於テハ」とか随分慎重な言い回しをしています。これから分かることは、除隊の処置は各兵団、各部隊においてそうとうバラバラに行われていたのであろうということです。
 厚生省の引揚援護局が1956年に「山西軍参加者の行動の概況について」という調査記録を残していますが、1946年3月10日の調査で山西軍(閻錫山軍)参加を承諾した軍人は5916名いたが、軍の主力が撤退した後に残った軍人は2563名であると記しています。
 この数字は、1月余りの間に、特務団から原隊へ復帰した者が6割以上いたことを示しています。
 こうした混乱を極めた状況のなかで、軍隊の原籍簿は実際にどのように処理されたのでしょうか? 先の厚生省引揚援護局の調査記録によると「第1軍は、その山西出発後において、なお山西に残留した約2600名の将兵に対し、現地除隊(召集解除、解雇)の処置をとった」と記しています。
 「山西出発後」とありますが、日本への帰還途上の混乱したなかでそうした作業が行えるとは考えられません。恐らく日本本土上陸後に軍籍簿の整理がなされたものと思われます。残留した将兵たちのあずかり知らぬところで、除隊(召集解除)の手続きが行われていたわけで、このように作られた軍籍の処理が、帰国後の将兵の運命を左右することになったのです。
 最初に言いましたように、私たちはみな日本に帰国して初めて除隊になっていることを知ったのです。多くの人は「3月15日」除隊になっていますが、私の場合は除隊の日時が「3月?」となっています。

 この一連の経過を見ていただけばお解りのように、軍は戦前の命令指揮系統を保持したまま将兵に山西残留を命令しました。一方で、この残留が「ポツダム宣言」に違反する行為であることを軍首脳は承知していました。
 ところが、国民政府から帰国を命ぜられると、一転して残留者を「逃亡者」として切り捨て、当人への告知もないまま除隊(召集解除)扱いにしてしまいました。残留して戦闘に加わり戦死した人たちは遺族補償を受けることもできず、捕虜になって帰国した人たちも、軍人恩給の対象にならないということになったのです。
 残留した将兵の犠牲のうえに、軍はその責任を免れようとしたわけですが、その姿勢は日本国家にそのまま引き継がれています。日本政府も「ポツダム宣言」違反になることを恐れ、軍の関与を決して認めようとはしないのです。


 (注)引用した電報類は、防衛省の防衛研究所図書館に保管されており、閲覧可能である。また、インターネット上において「中国山西残留の日本兵問題」のホームページにその一部が写真版で掲載されている。
 厚生省引揚援護局の「山西軍参加者の行動の概況について」は「日華事変と山西省」のホームページに掲載されているが、この引揚援護局の報告書は事実の誤りも多く問題の多いレポートである。
 裁判における原告側の「準備書面」は、インターネットの「山西省訴状特集」で見ることができる。


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