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山下正男氏 第13回:22.内戦の本格化〜23.日本義勇軍の呼び寄せ計画

22 内戦の本格化

――46年1月10日に国民党と共産党の停戦協定が結ばれたわけですが、これはどれぐらいまで有効だったのでしょうか?

 蒋介石にはもともと停戦する意志はありませんでしたから、この協定が長く続くはずがありません。
 日本の降伏後まもなくの両党の戦力をみますと、蒋介石の国民党は、正規軍400万に、地方部隊が200万、合計600万の大軍を擁していました。
 その上にアメリカは、国民党軍に大量の兵器を与えていました。B29の爆撃機や戦車、重砲、通信機にいたるまで、アメリカ製の近代兵器がどしどし送られてきました。
 これに対して、共産党・八路軍は、正規軍60万に民兵60万、あわせて120万の軍隊があるだけでした。兵器は、それまでの内戦で国民党軍から取り上げたものや、終戦で日本軍から手に入ったものが主なものです。
 蒋介石は、3ヶ月から6ヶ月のうちに共産党の全解放区を撃破してみせると豪語していたようですが、兵員の数や武器の優劣から見たら、そう思うのも無理はなかったかもしれません。
 5月にはまず東北地方(満洲)に大軍を派遣し、四平や長春を八路軍から奪ってゆきました。
 そして、6月の末から26個師30万の軍隊を動員して、山東、河北、山西、河南にまたがる解放区に対して総攻撃を仕掛けます。
 10月には、さらに50万の大軍を派遣して、東北地方に大規模な攻勢作戦を展開します。内戦はこれで全面戦争になりました。

 山西省でも、7月には忻県(きんけん)で八路軍の賀龍の部隊と閻錫山の軍隊が衝突しました。閻錫山は太原地方に2個集団軍を集結して決戦を挑みました。これには日本軍からも、元泉馨が第8集団軍副司令として指揮をとりましたし、岩田清一も第2縦隊司令として戦線の指揮をとりました。
 しかし、この後46年9月から47年にかけては、山西としては比較的平穏な日々が続きました。もちろん各地で小さな戦闘はありましたが、両軍とも整備補強が必要でしたから、大規模な攻勢はとれませんでした。
 閻錫山はこの間に軍を教育し強化し、将来の決戦に備えようとしました。山岡道武は正式に閻錫山の顧問となり、閻の事務室の隣に顧問部を開設しました。
 同時に彼は、幹訓団、親訓団の総教官として、あらゆる部門の閻軍の教育を行いました。その教育は、師団長級の高級指揮官の再教育から、団長、営長の幹部教育、さらには部隊教育まで含まれていますが、これらに日本人が教官としてついて、中国兵に猛訓練をやったのです。

――山下さんご自身も幹訓団、親訓団の教官をされたそうですね。

 私は、46年の7月からは「第2戦区幹部訓練団第6中隊少校主任教官」となって、山西軍の幹部訓練に当たり、10月からは親訓団の訓練を、というように専ら山西軍の軍事教官をしていました。大体3ヶ月で1教程が終わりますが、そうすると一応原隊へ帰ることになるのです。私の原隊は布川直平大尉の244大隊です。
 ところが、このとき岩田参謀から、「山下、お前のことは布川の爺さんに話をつけてあるから、もう原隊に帰らなくてもいい。俺の下でやってもらう」と言われまして、私はそれっきり最後まで岩田と運命を共にすることになってしまいました。
 幹訓団・親訓団の指揮系統はみな中国側がにぎっているのですが、日本人の将校、下士官、兵士が教官として配属されて、山西軍の兵士を訓練するのです。これには、閻錫山からじきじきに、「ビンタ」その他徹底して日本軍隊式にやってほしいと言われていましたから、日本人教官は絶大な権限を持っていました。
 幹訓団での教育は、山西軍中堅幹部の訓練が目的ですから、教官も生徒もその取り組みに格別の気合がこもっていました。
 私の肩書きの中の「少校」というのは、日本の少佐に当たります。閻錫山が日本兵は一律に3階級特進させると決めたために、少尉から少佐に引き上げられたのです。
 またこのころ、私は岩田清一の指示で、「迎暉学会」(会長河本大作)の砲兵訓練所派遣理事となり、極東情勢と日本再武装の研究部員となっておりました。迎暉学会の「暉」は「かがやく」という意味の漢字ですが、ご覧になればすぐ判るように、この字を分解すると「日軍」となり、日本軍を迎えるという意図をこめて付けた名称です。これも残留部隊の本性を如実に物語っています。


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