「戦争が終わっていち早く、共産党は中国各地域の新四軍、八路軍を満洲へ支援に送り込みました。しかし、支援に来てみると、満洲自体は様々な遅れが目立ちました。そこで、黄克誠後勤部長が「満洲は七無し」と党中央部に報告したのです。七無しとは、根拠地無し、人民政府無し、武器無し、軍人無し、などといった内容です。党中央は、検討した結果、根拠地を作るよう指示しました。それも、できるだけソ連とか朝鮮国境に近いところから根拠地をつくり始めるよう指示しました。根拠地を作ることは土地改革、土地革命から始まります。地主を集めて裁判にかけ、農民に土地を与えていきました。その農民を母体にして人民政府が作られていったわけです。満洲においては、1946年、47年、こうした事態が進行していたのです。 こういう基盤ができたころに、国民党はようやく満洲にやってきたのですが、すでに遅すぎました。ソ連は46年5月ごろには引揚げてしまっていましたが、満洲の重要な設備をみんなかっぱらっていきました。国民党はそれと入れ替わるように入ってきたのです。しかしすでに、地方の小さなところはみんな民主連軍に押さえられてしまっていましたから、国民党は大都市しか勢力を維持できなかったわけです。」 「こういう状況で、48年から民主連軍の反撃が始まるのですが、僕は、47年の7月に第10後方病院に移ることになりました。長春とか四平、公主嶺といったところで激戦が行われていましたから、後方病院にはこうしたところから患者が運ばれてきました。 「後方病院」というのは、文字通り後方の安全な場所にあるのですが、一方で軍と一緒に付いて行く「兵站病院」がありました。これは前線に近いですから、ここでは応急処置だけして、患者を後方病院に送ります。 さらに、兵站病院よりももっと前で軍と一体になって行動しているところに「医務処」がありました。これは最前線です。そういうところにも日本人の医師や看護婦がたくさんいました。」 「第四野戦軍は南下をしていって、長春と瀋陽(満洲国時代は「奉天」と言った)を完全に包囲しました。包囲したのはいいが、このあたりは山がないところで、みな平野ばかりです。平野の戦いというものはやりづらいものです。勿論壕を掘ってそのなかに隠れているのですが、上から見れば丸見えですから、空からの攻撃には弱いのです。よくあんなところを包囲できたものだと思いますね。 国民党は包囲されている街の中を救援しようと飛行機から食糧や武器を落としていくのですが、しかし正確に落下できないで、包囲している民主連軍のところにしばしばその食糧や武器が落ちてくるのです。それはみんな戴きでした。 ともかく、このあたりはすさまじい激戦でしたから、国民党も大打撃をうけましたが、民主連軍側も痛手が大きかったです。 国民党は大都市だけに重点をおいていて、後方の根拠地はありませんでした。民主連軍は農村を根拠地にしていましたから、大都市なんか問題でない、ただ包囲すればいい、という考え方でした。そういうところが基本的に違っていましたね。 48年に、共産党中央軍事委員会は「大軍は南下せよ」の命令を発しました。いよいよ大反攻に転じたわけです。「長春、鉄嶺、瀋陽は包囲したままでよい。大軍は錦州、山海関のほうへ行け。ただし、営口だけは彼らが逃げないように攻撃せよ」という命令です。営口は大きな港ですが、そこしか逃げるところがないのです。 このとき第四野戦軍を率いていた林彪は、せっかく長春を包囲したのだから、大軍を長春に戻してここを叩こうと主張しました。しかし、中央軍事委員会はその必要はないと言ったので、両者の意見は対立しました。結局林彪の意見は通らず、大軍は阜新(ふしん)に集結することになりました。そして、ここから錦州に入っていったのです。これが48年の5月です。大きな戦闘がおこなわれたのは、この錦州とその後の天津です。大激戦でしたから、双方大きな犠牲がでました。 北京(この当時は北平(ペーピン)と言っていた)には当時国民党の将軍傅作義(ふさくぎ)がいましたが、延安の共産党は何度も彼に投降するか戦闘を選ぶかを迫り、投降すれば彼を優遇すると言いました。傅作義は結局投降して人民政府の閣僚になりました。そして国防委員会副主席とか水利電力部の部長などを歴任しました。だから、北京は戦闘がなく無血開城となったのです。これは少し後の49年2月のことです。そして同じ頃天津では大激戦が行われていたのです。」 |
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