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インタビューリスト

 2家族は建設大学のある莱陽方面に向けて出発したが、数日かかったこの旅がまた大変な旅となった。中共側の使者としてたびたび登場する宮氏が、今回もまた案内人となり、さらに助手として劉君という元気のいい青年を付けてくれた。
 荷物は数頭の馬に載せ、子供と年寄りは馬の背に籠を渡して両側に一人ずつ乗せた。第一日は中国里60里(約40キロ)という強行軍であった。二日目は雨に降られて難儀する。それでも小さな村落に辿り着いて宿泊したが、蚊の猛攻にさいなまれた。
 「恐ろしい蚊である。蚊の中に空気があると言ったほうが適切である。顔も手も、1ミリのすきまも出せない。母親たちは子の蚊を追って、到々夜を明かした。」(阿部『招かれざる国賓』240頁)
 3日目、雨はなおも降り続き、道はものすごい泥濘となっていて、女にはとうてい歩けそうもない。そこで、井口夫人は長男と赤ん坊を籠に乗せた馬の背に乗って出発した。断崖のある山登りで、急坂にさしかかると、後ろの井口は馬の背の妻や子供が転げ落ちはせぬかと気が気でなかった。それでも、どうやら無事に山を越えられた。
 平坦な村道に出てホッとして一休みしたところで、井口を呆然とさせるようなことが起った。馬夫は一軒の農家の前で馬をとめ、煙草の火をもらうために農家に入って行った。馬は主人を失って、石垣に囲まれた空き地に入ろうとしたところ、両側の籠が石垣につかえて入れない。その籠には長男と赤ん坊が入っており、背中には夫人が乗っているのである。キセルを銜えて出てきた馬夫は、この様子を見ると、何を思ったか、いきなり鞭で馬の尻を思い切り叩いた。驚いた馬は強引に前に進んだので、出張っている籠が石垣を崩してしまった。その崩れ落ちた石が馬の後足を打ったので、馬は狂ったように奔りだしてしまったのである。馬の背に必死になってしがみついていた夫人は振り落とされ、ヌカルミの上に叩きつけられ、そのまま気を失ってしまった。
 いきりたった馬は、さらに草原を駆け抜け、大きな池のなかに跳び込んだ。向こう岸に泳ぎ着いた馬は、背中を斜めにして岸へ這い上がった。その瞬間両側の籠が馬の尻のほうから地上へ転がり落ちた。長男は籠の外に投げ出されたが、赤ん坊のほうはそのまま籠に残っていた。
 これを見ていた阿部の長女・桂子が、籠のところへ駆け寄って、赤ん坊を籠のなかから抱き上げた。籠から投げ出された長男はワアワア泣いていたが、赤ん坊はニコニコして幸い怪我もなかった。
 しかし、井口夫人のほうは、やがて意識は戻ったものの、腰の打撲はそうとうに酷かった。井口によれば、この打ち身が元で、夫人は十年後には神経痛が出、二十年後にはついにビッコを引いて歩くようになったという。

 3日間歩いて?陽の近くまで来ていた。ここに大学があるのかと思っていたら、さらに150里(約100キロ)先にあるという。建設大学は“移動大学”であるので、戦況が思わしくなくなったため、海陽の方へ移ってしまっていたのである。
 4日目、歩き出してしばらくしたところで、荷物を担いでやってくる1隊とすれ違った。井口はそのなかに宮原泰幸がいるのを発見した。中試のメンバーとして一緒に山東にやってきた宮原は、農薬の専家であり、1年前の8月末、玲瓏金鉱から別の村に農薬指導のため赴任させられた。ここで会ったのは、まったくの奇遇であった。聞けば、宮原も戦火を避けて疎開しているところであるという。
 阿部も宮原を見つけて近づいてきて、3人での立話となった。「お二人がひどく困られていることを、ある中国人から聞いたんです。そこで、佐竹君を通じて、李亜農先生に救済法を頼んだんですよ」と宮原。「そうか。わし達は、その李先生のいる大学に向っているところだ。宮原君、有難う!」と阿部。
 お互い先を急いでいるため、短い邂逅であった。歩いていると、ひっきりなしに国民党の飛行機が飛んでくる。木の陰や崖の下などには、八路軍の軍用トラックや大砲などが、偽装の草を被せて隠されている。
 この日の午後のことであった。ゆるい丘を登っていたとき、阿部の長女・桂子の乗っていた馬が突然はねあがった。アットいう間に桂子は馬から落ち、その上を重い鞍が重なって落ちて行く。10メートルほど前を歩いていた阿部は、それを見て大急ぎで駆け寄った。桂子の体は運よく鞍の両脚にはさまっていた。もし鞍のどの部分でも体に触れていたら、即死か重傷は免れなかっただろうと阿部は思った。
 それにしても、気を失っている桂子を、担架なしでは運べない。麓の村から担架を借りて来たころ、桂子はようやく正気にもどったが、痛みは激しさを増してゆく様子であった。その夜、阿部は一晩中うなり通す桂子に湿布したりして夜を明かした。夜明け、娘は少し落着いてきた。尿意を催してきたというので、オンドルの上で大きな娘を赤子のように抱えて、排泄の目的を達せさせた。
 「単なる打撲傷だった! 不具者にならずにすんだ!」
 阿部の眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。翌日一日静養できれば、病人も随分楽になるであろうが、翌朝になると宮はすぐ出発するよう促した。しかも、桂子を担架ではなく籠に入れて運ぶというのである。腰から背中にかけて、打撲のため紫色に内出血している娘を、無理やり二つ折りにして籠のなかに押し込めて運んだ。
 夕方、磐石店に着いた。「店」とは旧くは旅館、はたごを言い、地名に店が付いていると、そこは旅館や商店がある宿場町であることが判るのである。ここには病院もあったので、桂子はすぐに病院に担ぎ込まれた。
 この附近は新四軍が管轄していた。日中戦争の時期、中共軍は華北では八路軍に編成され、華中では新四軍に編成されたが、華北に属する山東の地には、日中戦争の末期に華中から新四軍が送り込まれてきていたのである。新四軍と八路軍では、身体付きも違えば言葉も違うので、すぐ見分けが付く。
 新四軍の管理する病院で手厚い看護を受けたので、阿部は新四軍がすっかり気に入ったようであった。

 「『こんな重傷患者を担架で運ばないなんて、八路の奴等は仕様がない』
 と、看護婦も医者も、吾々に代って憤慨してくれた。吾々としては、そうした文化的な辞を聴いただけで、嬉しくなってしまうのである。新四軍の人々は、上海附近から来ておるから、青白いインテリ風の処はあるが、山東八路の人々よりは、一段教養において上のようである。
 中共がもし天下をとったならば、中国の文化工作を担当する者は恐らくは、新四軍の人々であって、八路の人々ではあるまい。」(『招かれざる国賓』244頁)

 磐石店に4日程滞在して、西方16キロのところにある鶴村に移った。そこには移動して行った建設大学があるのである。

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