logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト


21 井口を残して出発
 
 彼らは16日に林家村を出発することにした。しかし、監禁されている井口をどうするのであろうか。再び阿部の語るところを聞こう。

 

「井口博士はまだ監禁されている。とても16日には、間に合いそうもない。大槻、緑川、高木の諸君と善後策に就いて相談した。丁度その時、独房からメモに書いた井口の便りが来た。彼は、あくまで帰国の初志をまげないから、関谷の出発を延期してくれとの事である。
 『関谷先生が、現在、帰国の意志を正式に表明した以上、16日以後、林家村には先生のとどまる事を絶対に許さないであろう。それが中共の習慣である。
 日本の酒の習慣から見れば、井口博士の非は、実に一些事にすぎない。然し、些事とは云え非は日本人側にある以上、日本人側から井口放免を主張する事は、事態を益々紛糾させ、延いては、関谷先生の出発も不可能になるかも知れない。今回、関谷先生等が敢えて出発するのは、林家村に残った吾々を救出する為である。これこそ、関谷先生に与えられた本務である。この全体的本務が、井口博士一人の監禁の犠牲になってはならない。本質的に見て、関谷先生が帰国の初志をつらぬいて出発する事が、井口君の真の救出の意味にもなると思う。兎に角、先生は出発すべきだ』
 これが3人の意見であった。大義親を滅する大きな立場から、私も出発に賛成した。」(『招かれざる国賓』163〜164頁)

 阿部はここで、井口を残して彼が出発することが、この情況においては正しい判断なのだと、大槻、緑川、高木の3人に語らせている(上記引用中の『 』のなかは、3人の意見を阿部なりに集約したものだというのであろうが、3人がほんとうにこんなまどろこしい“大義”を説いたのかどうか、今となっては検証のしようもない。)
 ともあれ、阿部は、監禁されている井口から密書まで受け取りながら、それを無視して出発した。
 16日、彼らは予定通り発って、林家村からわずか4キロしか離れていない呉家村に向った。この行に同行したのは、総勢14名である。呉家村を拠点にして、煙台か龍口で日本へ行ってくれる船を見つけようというのである。しかし、船が見つかってそれに乗船できるのがいつのことになるか誰にも分からない。そこで、阿部はみんなに提案した――現在手持ちの金も食糧もみんなで全部出し合って、日本に着くまで一切共同支出の形式でやってはどうかと。
 この提案には一人の異議もなく賛成した、と阿部は語っている。阿部自身は手持ちの4万5千円に、緑川、大槻、高木、古賀等から借りていた10万5千円と合わせて、合計15万円を出した。この出し合った金の合計は約22万円になった。
 煙台へ行って船を捜す役割を最初に仰せつかったのは、笠原であった。彼が出発したのは、1947年2月18日と阿部は記録している。呉家村から煙台までは120キロあり、往復にはほぼ1週間かかるものと予想された。

 笠原が煙台に発った2日後の2月20日、井口一家が呉家村に到着した。その時のことを、先ずは井口の「ダモーイ」から引いておこう。

 「目的の呉家村に、一家族が無事に辿り着いたのは、その日の夕暮れどきであった。関屋さんがキッと双手を挙げて喜んでくれるであろうと思って、先ず彼の住居を訪れた。私の顔を見ると、ビックリしたような面持ちで言った。
 『おう! よく来られたネ・・・』
 彼の表情の中から、私は喜びの片鱗も読み取れなかったばかりか、寧ろ失望の色が濃くにじみ出ているのを見逃さなかった。何故だろうか?
 『皆んな元気ですか?』
 彼の顔色に心配して、私が尋ねると、彼は
 『うん・・・まあな――』
 全く気のない返事である。これは後になって、段々解って来たことであるが、彼は自分の家族の帰国のみをひたすら考えており、その手伝人として、便利で足手まといにならない独身者を、盛んにそそのかして同行させたのである。
 家族持ちは笠原君1家族で沢山なのに、私の家族が又加わって負担が重くなることを怖れたことが一つ、それから、罪人扱いをされた私を合流させる中共側の魂胆は、自分たちをも帰国させる意志はないのではないか、という不安感が、彼の脳裏をかすめたために、かような冷淡な態度を示したのだと、後になって読むことが出来た。又、こんな気持であったればこそ、監禁中の私を放り出して、そそくさと出発してしまったのではなかろうか。」(「ダモーイ」第17回)

 同じ場面を阿部は次のように描いている。

 「『監禁をよく簡単に、解いてくれたね』
 『ところが、監禁はまだ解かれていないのです。“帰国問題と監禁問題とは全く別個のものである。私は、あくまで帰国の初志をひるがえさない”と云って頑張りました。そうしたら、高経理曰く、“関谷先生が、呉家村に居るから、其処に行って、当方の指令を待ったらいいだろう”と。こんな訳で釈放されましたよ』
 井口博士は嬉しそうであった。然し、私は、井口博士の話を聞いて、暗黒へ突落された様な絶望感を心の底で感じた。
 中共の人々にとっては、会議は絶対である。会議の決議は、至上命令権を有している。その会議席上で暴行したという罪で監禁された罪人を、監禁からまだ釈放しておらぬままに、吾々14名と一緒に置こうという高経理の肚のうちをのぞいて、私は慄然とした。」(『招かれざる国賓』175頁)

 井口のやってきたのを見て、阿部ががっかりした表情を見せたのは、当人がこのように認めているのである。

文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 20072009 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.