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インタビューリスト


14 農村の土地改革
 
 内戦が本格化してゆく1946年9月に、中共は中国全土の農村における土地改革を提起する。山東省においても10月に土地改革の布告を出し、地主から土地を取り上げてそれを大衆に分配するよう呼びかけている。『中共中央文件選集』『山東省志・大事記』を見ると、徹底化をはかるためこの指示は中央からたびたび発せられ、日を追うごとに全国で激しさを増していった。西労口の日本人たちもそれを目撃することになる。石黒夫人の回想記を見てみよう。

 ≪この国の政治のしくみには、共鳴される点が多かった私だったが、『制産』と呼ばれる、度を過ぎた制裁の仕方には、ちょっと反感をもった。
 近所に住む、大悪人の地主が、制産にあった上に、小作人たちからも、思う存分こらしめられ、こづかれ、ひどい目にあわされた。極悪の人ばかりではなく、広範囲にわたって、まじめな地主たちまでがはだかにされたとしたら、行き過ぎではないだろうか?
 この村に美しい若い婦人が、お母さんと二人で住んでいた。この家は農家とはちょっと雰囲気がちがっていて、よいセンスと都会的なムードが感じられる家であったが、この家の主人らしき人は見たことがなかった。
 私はこの家庭と親しくして、よく遊びに行った。ただ漠然と訪ねるのではなくて、子供たちの靴をつくってもらっていた。中国式に刺して作る靴は、軽くて比較的丈夫で子供の靴に適していた。
 ところが、ある日この家庭が制産にあって、すべての品物は持って行かれ、最少限の衣、食、住が残されただけのひどいしうちを受けた。地にたたきのめされたような哀れさだったと人伝てに聞き、私はびっくりした。
 ここの主人は国府軍の側のスパイらしいという噂も流れた。親しく出入りしていただけに、あまりにも可哀想で、私の心は穏やかではなかった。けれど行って慰めてあげる自信などはとてもなく、それっきり訪れることはなかった。
 過渡期の流れの一現象であろうけれど、非常に賢い政治を行っているこの国のことだから、こうした行き過ぎは、きっと早期に是正されるであろうと私は思った。≫(同上書、92〜94頁)

 石黒夫人には、山東の貧しい生活のなかで、自分たち日本人は明らかに優遇されているという実感があっただけに、中共に対して不満をいだくことはあまりなかった。しかし、土地改革のやり方に対してだけは、感覚的にどうしても付いていけない、行き過ぎたやり方だと感じたようだ。

 この「制産」については、山東半島で石黒たちと別の村に滞在することになった工静男の夫人・良子が、身近に見た体験を語っている。工夫人も前述したごとく、やはり元中試の所員であった。

 「ちょっと付き合っていた大地主の奥さんが手と足をしばられ、文字通りつるしあげられ打たれて、その悲鳴が聞え、とてもやりきれない気がした。
 その前に、隠してと頼まれた包みを、主人が奥の布団袋の向こうに投げておいたが、大声をあげながら大勢押し寄せてきて、預かった物はないかというので、生きた心地がしなかった。
 主人が、毅然たる態度で、そんなものはないと一蹴したら、しぶしぶ帰って行ったのでほっとした。」(工良子「遥かなる大連・山東」『満鉄中試会会報』第20号)

 ところで、このような貧しい環境下に日本人が暮らしていて、病人が出ないはずがない。とりわけ子供は免疫性もないだけに、発病すると、薬は少ない、医者はいない、で大変であった。

 ≪満二歳になる三男武朗が急に発病した。高熱が出て、便は粘液便になり、ぐったりしてしまった。
 むかし、弟が子供の頃に疫痢になったことがあるので、そのときの症状をよく覚えていた私は、“これは疫痢かもしれない”と思った。いざという時のために常時手元から離さなかった梅肉エキスが役に立った。すぐに飲ませた。(中略)
 片時も目が離せないこの重症の幼児に、私はつきっきりで看護をした。『梅肉エキス』の利き目はすばらしく、疫痢症状は峠を越したが、ほっとする間もなく、衰弱している体に余病が出てしまった。今度は肺炎だった。(中略)
 この頃この村には、最初のグループに加えて、やや年配の3家族ぐらいが合流していた。西労口の日本人も大分バラエティに富んで賑やかになっていた。皆さんがわがことのように心配してくれて、ストック品のわずかな薬を持ち寄ってきてくれた。それらはほんとうに貴重な薬であった。(中略)
 こんなにみんなで手を尽していても、一日数回今にも息が止まりそうになり、少しの油断もできなかった。「また呼吸がへんよ」と私が叫ぶと、夫がバタバタと、とぶように走って、家から2分位の距離の潤(うるお)さんを呼びに行くのだった。
 潤さんは、佐藤夫人の弟さんで、医科大学の予科に在学しているときに終戦となり、それっきり学校へは行けなくなってしまわれた。潤さんはすぐにとんできて大事なストック品の強心剤を注射して下さった。少なくとも、日に2回ぐらいは潤さんに来ていただき、強心剤を打ってもらった。
 夫は潤さんと相談して蒸留水を作った。食塩注射液を自家製造したのだ。全くの素人が、食塩注射液を作って潤さんに静脈注射をしてもらった。それほど武朗の体は重態だったが、大勢の人たちの祈りと支援、友情にまもられて、この幼い生命は奇跡的に助かった。
 武朗が疫痢症状になって2日目ぐらいに、橋本さんのお嬢さんが全く同じ症状の病気になった。武朗と同年の可愛らしいお嬢さんだったが、この時ついに幼い命が奪われた。当時、橋本夫人は病身だった。大切な、たった一人のお嬢さんを亡くされた橋本さんの悲痛なお顔が瞼にやきついている。また橋本夫人の悲しみに堪えて端然とした態度には、皆が涙をさそわれた。≫(同上書、94〜97頁)

 橋本夫人昌子さんはご健在で連絡がとれたが、体調が思わしくないということで、今回面会はかなわなかった。電話で話をさせていただいたが、お嬢さんを亡くされた時のことを尋ねると、昭和22年8月26日とすぐに返事が返ってきた。きっと今日まで欠かさず供養されてきたのであろう。
 なお、橋本夫人は、山東半島で一年半足らず転々として過ごした中で、中共に対する嫌な思い出はまったくないと語られた。物は確かに不足していたが、そんななかでも先方は自分たち日本人に精一杯尽くしてくれている、ということがよく分かったという。

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