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 高木智雄は、第5回でも少し触れたが、阿部良之助が課長を務める燃料課に所属し、阿部の信任も厚かったようである。彼は当時においては珍しいケースでもなかったが、大連で生まれ、小学校・中学校は山東半島の青島で送り、大学は早稲田大学に入学して初めて本土で生活した。そして昭和9年卒業とともに満鉄に就職し、再び大連に帰ってきた。夫人の喜代子も青島で生まれ、青島の小学校・女学校を出て、昭和15年大連で高木と結婚したという。
 高木は、今回山東に1年近く滞在の後他の人たちと一緒に再び大連に送り返されたが、大連で日本への最後の引揚げが始まったとき、帰国すべきかどうか随分迷ったという。帰国しても身を寄せる家もなければ親兄弟もいない、中国の骨になろう、中国では最低限の生活は保障してくれるであろうと。しかし、結局帰国に踏み切った。(高木喜代子「戦後四十年」『中試会会報』第11号、1985年)
 帰国後は日本揮発油株式会社(現日揮)に就職し、昭和46年には常務取締役の職にあった。

 岡田寛二は、高木と同様、燃料課の所員であった。彼が晩年『中試会会報』第20号(1994年)に寄せている回想記を見ると、玲瓏金鉱で大病をしたらしい。山東には10ヶ月留まったのち、1947年5月に大連に引き返し、49年9月に帰国している。佐藤正典の世話で協和発酵(株)に入社し、昭和46年には常務取締役の職にあった。

 緑川林造は、中試・無機化学課の主任であった。山東に来た中試所員のなかで、東北に送り返されることなく、内戦下の山東に留まった3人の1人である(他の2人は佐竹、宮原)。山東省張店(現淄博市)のアルミニウム工場に留用され、人民共和国成立後の1953年(昭和28)に帰国している。昭和46年には北海道大学工学部教授の職にあった。

 亥川繁好(いがわしげよし)は、中試・燃料課の「合成燃料研究室」に所属する所員であった。玲瓏金鉱では緑川とともに金の製錬の講義を行なっていた。この鉱山に来てから、中国側から金、銀、銅の精錬所の建設を依頼されたが、設計段階で内戦が激しくなり、10月には玲瓏金鉱から撤退しなければならなくなった。そのあとは農村を転々とし、翌年の7月再び大連に送り返された。
 彼は晩年に山東省の農村で生活したことに言及して、電気もない炊事場も便所もない生活だったが、中国人の親切が心に残ったと、次のように語っている。
 「山東省を去るに際して感じたことは中国人の人の良さである。農村の人達と一つ屋根の下に住んでいる間随分親切にして貰った。私達が中国の農民と話し合う事は中共側は喜ばない事だったが、私達はあの親切をいつまでも忘れないし、あの人達のように広い心を持ちたいものだと思った。」(亥川繁好「満洲化学工業の解体に立ち会う」『中試会会報』第20号、1994年)
 彼は大連に帰ると、元の研究室の主任であった渡部進が経営していたマッチの原料工場で働き、翌年(1,948年)の7月日本に帰国した。

 大槻茂寿は、中試・燃料課の所員であった。47年に再び大連に送り返されたが、日本への帰国の時期は不明である。上記『一科学者の回想』によれば、昭和46年には大阪府立工業奨励館堺分館長の職にあった。

 笠原義雄も、中試・燃料課の所員であった。彼は家族ぐるみで山東省行きに参加し、農村を転々とするようになってからも、阿部良之助と一緒に行動していた。しかし、あとでまた取上げるが、最後には阿部と決裂することになる。

 以上の人たちは、玲瓏金鉱に留まって、学生たちに講義をしていた人たちであるが、このとき、日本語の通訳、講義原稿の翻訳を一人で担当した中国人青年が、戦前の三菱鉱業の時代に山本市朗(第8回で紹介)の下で働いていた張青年である。当時20歳と若かった張氏は解放後、玲瓏金鉱の発展に尽した功績により、総高級工程師になった。彼は日本企業との共同事業を積極的に進め、多くの日本人と交友をもったそうである。中試の元所員・松本忠恕が『満鉄中試会会報』第20号(1994年)に「張総(チャン・ゾン)さん」と題して張氏との交わりを語っている。

 ところで、先の『山東省志・大事記』には、一箇所だけこの日本人技術者たちについて言及した記事が見える。その記事は、1946年の末尾に冬の出来事として、次のように記す。

 「中共膠東軍区委は、兵器の生産を増強するために、大連から迎えた三十数名の日本籍技術者を膠東工業研究室に徴用することに決定した。」

 これが全文である。『山東省志』は中共が政権をとって後、省の党委員会の責任編集で刊行された、いわば中共の“正史”である。これで見ると、日本人技術者たちは然るべき所に定住してみな兵器生産関連の仕事に従事したかのように取れる。
 しかし、これまで見てきたごとく、玲瓏にしばらく留まっていた阿部、井口らは、専ら学生に講義をしていたし、佐竹は単身解放軍の後勤部に赴き医薬品製作に従事していた。
 石黒たちも、電灯すらない山間の村々を転々とさせられたが、そうした所は、日本人技術者たちがその技能・技術を発揮できるような環境では到底なかった。
 ただ、橋本国重の回想に、わずかながら兵器関連の仕事に言及しているものがある。西労口という村に滞在した折のこととして、橋本は、農家の土間のようなところで、解放軍の若者たちに、金属、火薬の分析を指導していたと語っている。(橋本国重「終戦から帰国まで」『満鉄中試会会報』第20号、1994年)

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