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 アメリカの歴史家タン・ツォウは、ハーレーの和平計画が失敗した原因を分析している。それによれば、ハーレーが計画を立案するにあたって描いていた2つの想定が誤っていたからであるという。第1の想定は、「ソ連の国民政府支持の約束は中共を屈服させ、また、ソ連は国民政府を支持して中共援助を差し控えるであろう」というもの。第2の想定は、「ソ連は無条件で米国の平和統一政策を承認し続けるであろう」というもの。現実はハーレーの想定とまったく異なったため、彼の計画は破綻してしまったのだという。(タン・ツォウ『アメリカの失敗』毎日新聞社、1967年)

 タン・ツォウのいう第1の想定について言えば、ソ連は友好条約の交換公文で、国民政府だけを支援するという約束をしながら、それを守らなかった。それどころか、国府軍の東北進出にいろいろ障害を設け、陰で中共に有利になるような行動をとった。中共は華北において精力的にその支配範囲を広げ、東北にも大量に兵力を送り込んで、かの地を確保しようとしていた。
 第2の想定については、アメリカの指導者の大部分は、第二次大戦の末期から戦後しばらくの間、ソ連は米国の平和政策に協力的であると思いこんでいた。中国においても、アメリカが意図している安定した民主的政権の立ち上げに、ソ連もこれを歓迎するものと思っていたのである。しかし、まずヨーロッパで米ソは対立し、それが次第に激化していくと、中国においてもソ連はアメリカにとって脅威となり、やがて冷戦へと発展していく。

 トルーマンは、ハーレー大使の辞表を受理した同じ日、マーシャル将軍を大使の資格で中国における大統領の特別代表に任命すると発表した。アメリカは、こうして再度国共調停に乗り出した。
 マーシャルは、国民党が軍事手段で共産党を圧迫しようとすれば、国民政府の崩壊をもって終り、中国に共産党の支配をもたらすであろう、と見ていた。そこで、彼は中共を含めた連立政府を樹立し、双方の軍隊を国民軍に統一するという計画をもって乗り込んできたのである。

 マーシャル使節団は、国民党と共産党の和解のためにひたすら奔走した。共産党を少数派として政府に参加させることで、彼らを認め彼らの敵対性を除去することを考えた。
 年が明けた1月5日、国民党代表・張群、共産党代表・周恩来とアメリカ代表・マーシャルによる「軍事三人委員会」が成立し、1月10日には「国共停戦協定」が調印された。

 これによって、各地で発生していた国共間の衝突もひとまず終息した。双方の軍隊が交戦状態に入ることを監視するために、先の「軍事三人委員会」の下に、やはり国民党、共産党、アメリカからそれぞれ代表を出して、「三人小委員会」が設けられ、今度こそ和平が実現するものと、多くの人から期待された。マーシャルは、中国国民から「平和の使徒」としてもてはやされた。

 一方蒋介石は、共産党との最終的和解は絶対にありえないと見ていた。武力においては、国府軍は共産軍に対して5対1の割合で優位に立っている。彼は力でもって共産党をねじ伏せる機会を絶えずねらっていた。アメリカ国務省の『中国白書』は、「蒋総統は引き延ばされた交渉の陰にかくれて、明らかに断固たる力の政策を追求していた」と総括しているが、まさにその通りであろう。

 マーシャルの和解策が最初に破綻するのは、東北(満洲)においてであった。46年1月10日の停戦協定により、国民政府はソ連軍の撤退後、中国の主権を回復するため、東北へ軍隊を移動する権利が公式に認められた。つまり、中共もアメリカも国府軍の東北派遣に同意したのである。
 ソ連軍の東北占領は長引き、当初の約束では最大3ヶ月といっていたが、実際に撤退が開始されたのは、7ヶ月あまり後の46年4月6日からであった。このソ連軍撤退によって生まれた真空状態に、国民党・共産党双方が支配権をめぐって衝突した。前章で述べたごとく、中共は終戦と同時に、東北における勢力拡大をねらって大量の部隊を送り込んでいたのである。
 最初の大きな衝突は4月18日長春で起こった。1ヶ月の激戦の末、国府軍は共産軍を破った。5月19日には、国府軍は戦略上の要衝四平街を攻略した。共産軍は北へと撤退して行ったが、勢いに乗る国府軍は、さらに吉林とハルビンに進撃して行った。
 マーシャルは、戦闘を停止するよう懸命に両者を説得し、6月7日から30日まで、東北における停戦が実現した。しかし、このときにはすでに中国各地で両者の衝突が起こり始めており、やがてそれは全面的内戦に発展して行った。

 阿部良之助が山東にやってきたのは4月19日で、このとき満洲ではすでに衝突が起こりはじめていたが、まだ山東半島には戦禍は及んでいなかった。ところが、それから1月あまりたった5月下旬、国民党は華中・山東の解放区に攻撃を仕掛けてきた。短期間のうちに300の町や村が国府軍に占拠された。
 山東軍区の八路軍司令官であった陳毅将軍は、6月1日、「軍事三人委員会」と北京の軍事調停処に覚書を提出し、国府軍に即時侵攻を停止させるよう求めた。

 国民党の強硬派の将軍たちは、勝利の勢いに乗って、「軍事的に見て、共産党を3ヶ月以内に降伏させることができる」と豪語していた。ここまでくると、蒋介石は、マーシャルの停戦案に対しても、共産党に非常に厳しい条件付きでしか応じなくなった。

 6月26日、中共の華東・山東軍区は陳毅主導のもとに指導者会議を開き、各部隊に動員令を出し、迎撃体制を取ることになる。これで、内戦は全面的戦争に突入してゆく。
 この「6月26日」という日付は、阿部が『招かれざる国賓』で述べている、陳博士が政府の意向として、「煙台に研究所を建設することは無期延期になった」と伝えた正にその日である。

 (阿部は日記を付けていたが、その日記を無事日本まで持ち帰り、それに基づいて『招かれざる国賓』を執筆したようである。したがって、書中の日付は正確で、中国側の公式記録とほぼ符合する。なお、山東省をめぐる中共側の方針、事件・出来事等については、主として山東省地方史志編纂委員会編『山東省志・大事記』山東人民出版社、2000年、および中央档案館編『中共中央文件選集』中共中央党校出版社、1991年に拠った。)

 7月5日から10日にかけて、済南と青島を結ぶ膠済線沿線で大きな軍事衝突が起こっている。膠済線の周辺はもともと中共の勢力が強く、周辺いたるところに解放区ができていたが、蒋介石は「一月で膠済線沿線の解放区をぶっ潰してみせる」と言明していた。

 中共側では、7月末、渤海区に山東野戦軍第七師が結成され、8月1日には山東省参議会が「内戦に反対し全省同胞に告げる書」を発して緊急動員をかけ、前線を支援し国民党の進攻を粉砕しようと呼びかけた。

 大連から日本人技術者とその家族127名が到着した7月30日は、受けて立つ中共側に敵を迎え撃つ体制が作られはじめたときであった。

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