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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第6回

5 出航

 阿部の手紙から1月近く、太華公司の呉宗信の指示を待っていた石黒たちが出発することになったのは、7月27日であった。正範さんはこのときのことは全然記憶にないという。母上の文章を引こう。

 ≪その日はついに来た。大連を脱出する日がついに来た。ある夏の日の真夜中、荷物とともに、兄の家族四人、私たち六人、母を交えての十一人は迎えのトラックに声を立てないように注意しながら、そーっと乗りこんだ。
 私の生れ故郷――永く住み馴れた大連ともうすぐお別れなのだ。懐かしいさまざまな想い出が脳裏を駆けめぐる。
 あのすばらしい星ケ浦! 南山麓小学校時代、星ケ浦ですごした海浜学校の思い出――担任だった森本先生のお顔がちらつく。(中略)
 長女洋子がフリクテンを患って入院生活をおくった大連病院の早朝の静けさを思い出す。小高い丘の上に建つチョコレート色の病院、その病院の広い庭に立ったとき、何とも言えぬ神秘な大気の音が、じーんと伝わって来て身が清められるようなひととき。
 洋子の数回にわたる入院中、幼き子供たちの死を次々と目の当たりに見た。洋子も死の一歩手前まできたことがあった。夫の父の死もこの病院で――しかも洋子の入院中の出来事だった。
 色々の思い出に包まれた大連病院だが、不思議にも神秘の園のように忘れ難い聖域のように私には感じられる。
 なつかしい大連、私の心のふるさと大連と、いよいよ今日はさようならである。
 秘密の中に大連脱出の準備がすすめられ、そして実行に移され、表面的には一応成功したわけであるが、一方中央試験所側では、中試所員の失踪事件として関係者を驚かせ、またたいへん心配させた。≫(『北斗星下の流浪』49〜51頁)

 大連で生まれ大連で育った石黒夫人には、特別の感慨があったようだ。ソ連が入ってくるまでの大連は、完全に日本人の街であった。全人口80万人のうち、日本人は20万人であったが、その20万の日本人の住宅・公共施設が、市内の5分の4の面積を占めていたという。

 井口は出発前日の7月26日、15年間お世話になった佐藤正典博士を自宅に訪ねた。佐藤は、丸沢常哉の後任として、1940年10月から、終戦の年の6月まで中試の所長を務めていた。
 
 「先生は星ヶ浦の邸宅を追われ、桃源台の小さな家に侘住居を持たれ、奥様の内職で生計を保たれているような有様であった。
  『先生! 突然ですが、私共は明朝大連港を脱出し、関屋さんのいる山東省へ渡ることになりましたので、お別れに参りました』
  『そうか、もう少し早く私に相談してくれたらなア。君は関屋君の人柄をよく知っているのかネ? どうも心配だな』
  先生は深く思案の態であったが、もうこの機に臨んではどうしようもないことである。私達はかねて用意して来た金包みを前に差し出した。
  『これは終戦後、私共が働いて貯めたお金です。先生のお役に立てば幸いですから、全部置いて行きます』
  辞去するに際し、先生は桃源台の電停まで送って来てくれた。
  『気をつけて行けよ』
  堅い握手を交わすと、私と宅見君は電車に飛び乗った。手を振る老先生の眼から涙がこぼれた。電車が動き出すと、先生の姿は次第に小さくなって行ったが、いつまでもいつまでも手を振っておられる姿が、私たちの瞼に焼きつけられた。」(「ダモーイ」第5回)


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