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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第4回

3 阿部良之助の大連脱出

 終戦の日から4ヶ月経った12月中旬、中試の阿部良之助博士のところへ、山東省の政府機関の依頼を受けたという太華公司の呉宗信という中国人がやってきた。山東省は、後述するごとく、戦後いち早く中共・八路軍が解放区を広げ地区政府をうち立てたところである。
 呉宗信は当初、科学技術関係の図書を購入に来たのだと言っていたが、本当の目的は別のところにあった。翌1946年1月中旬、呉は阿部に、山東の政府から日本人科学者・技術者の招聘を依頼されていると打ち明けた。太華公司は、大連における中共の出先機関だったのである。

 中共の指導者たちは、戦争終結後の国内の主導権争いにおいて、国民党に勝利して必ず政権をとると揺るがぬ自信をもっていた。いろいろな記録や証言から窺えるその自信の強さは、ほんとうに驚嘆に値する。
 終戦直後の硝煙の匂いなお消えやらない混沌とした時期においても、彼らは勝利後の国家建設を見据えて、すでに着々と手を打っていた。
 山東省は中共が国内でももっとも早く政権を打ちたてた地域であったが、そこに次代の国家建設を牽引する科学技術の殿堂を建設しようというのも、そうした彼らの考え方から導き出された計画であった。
 しかし、戦前において、先端的技術を備えた工場や研究機関は、日本が支配している満洲の地に集中していたが、前にも述べたように、それらの機関の技術者は、ほとんどすべて日本人によって独占されていた。仮に、工場や研究機関を接収しても、中国人の後継者が育つまでのあいだは、日本人技術者の指導・協力は欠かせないのである。

 中共が、政権獲得後の国家建設を見据えて、山東省に科学研究所を建設しようと計画し、日本人技術者の協力を求めたことは、ちょうど終戦直後、林弥一郎少佐の一行が、満洲の地で林彪ら中共幹部から空軍創設の協力を依頼されたのと、非常によく似たケースといえよう。
 旧関東軍航空隊の敗残兵三百数十人を率いて奉天の附近をさまよっていた林少佐の一部隊は、逃げ場を失って八路軍に投降した。当時、八路軍は東北の地に入ってから、「東北民主連軍」と名乗っていたが、林彪らその幹部は、投降した日本兵たちが元航空隊の将兵であることを知ると、彼らに頭を下げて頼んだ。「中共にはこれまで空軍がなかった、空軍を創設するのは我が党の悲願である、ついては、航空学校を作って中国の青年たちに航空技術を教えてもらえまいか」と。これは、終戦から2月も経っていない1945年10月のことである。
 航空学校の創設は、飛行機も設備も機材もない、ゼロからの出発であったが、まずは、日本軍が残していった飛行機の残骸を集めることからはじめられた。ところが、学校の形をようやく作り上げたのもつかの間、国民党との内戦が勃発し、劣勢に立った中共軍は、航空学校を北へ北へと移動させることになる。それでも学校は継続し、元日本兵によって指導された若い中国の航空兵が育って行った。

 彼ら元日本兵が、立派に任務を果たし終えて一斉に帰国するのは1953年である。(これについては、古川万太郎『凍てつく大地の歌――人民解放軍日本人兵士たち』三省堂、1984年、および『留用された日本人――私たちは中国建国を支えた』NHK出版、2003年、を参照されたい。なお、本ホームページ掲載の筒井重雄氏もこの空軍学校で教えた教官の一人である。同氏へのインタビューの後半を参照していただきたい。)


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