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  もう一つは、演劇活動が盛んに行なわれていました。牡丹江にいるときには、僕らも子役として演劇活動に動員されました。私も『蟹工船』とか貫一・お宮の『金色夜叉』に出されました。『金色夜叉』などは、ストーリーを変えて、資本家と労働者の対立・矛盾に化粧変えされていました。脚本に得意な人がいて、そういうシナリオを書いていたようです。
 歌にしても演劇にしても、書物の上で教えるのではなく、身体で覚えるような方法で教育していくというのは、うまいやり方だと思いますね。
 牡丹江の郊外には、中国共産党が新たしく作った航空学校がありましたが、ここには元関東軍の航空隊の人たち300人近くが教官として生活していました。航空隊の部隊長は林弥一郎さんという方ですが、林さんたちの部隊は、終戦後の混乱した満洲をさ迷っているとき、瀋陽の近くで八路軍の東北地区の総司令官であった林彪と総書記・彭真から中国空軍創設への協力を求められ、それを承諾したのでした。そして、新たに作られた航空学校で中国の青年たちの飛行訓練に携わっていたのです。
 この元航空隊の人たちと鉄道関係の人たちとがときどき交流会を開き、野球の親善試合をやったり、歌や演劇の交流会を持ちました。航空隊の人たちは若く体格もよく元気溌剌として、僕らの周りの大人と全然ちがう感じがしました。この人たちに会って話をするのはとても楽しみで、一種憧れに似た感情を抱きました。当時は知りませんでしたが、筒井重雄さんもそのなかにいらっしゃったわけです。(注)
(注)本ホームページの筒井重雄氏へのインタビュー(連載第7回)を参照。

 こうした交流会も、中国共産党が我々を思想改造しようとする教育の一環であったと思います。牡丹江の地でこうしてすでに新中国の教育の洗礼を受けましたから、後日天水の中国人の中学に行ってからも特に違和感を感じませんでした。

 この頃、僕ら若者は数名が一緒になって、朝4時頃起きてよく朝市に野菜の買出しに行きました。日本人は集団生活をしていたのですが、中国語が解らないため、中国人が売りに来るのを待って野菜その他を買っていたのです。しかし、それだけではどうにも量が足りないので、僕らが市場で仕入れてきて、それを各家庭に買ってもらうということにしたのです。買ってきたものを売ると、その間にわずかですが利ざやが生じましたが、その金でマーボー豆腐に似た熱いスープを啜るのが僕らの楽しみでした。
 しかし、これにはちょっとした危険が伴いました。私たちの住んでいたすぐ近くに八路軍の駐屯している兵営がありましたが、そこには一日中門衛が立っていました。僕らは朝暗いうちにごそごそ動き出すわけですから、門衛が「誰か!」と誰何するのです。銃を持っていますから、答えないと危険です。それで、一番最初に覚えた中国語は「リーベンレン(日本人)」という言葉でした。――これでお分かりのように、私たちは中国に住みながら、満州ではそれまで中国語を一切使うことなく生活してきていたのです。
 僕らは数人で行動していましたが、ハルピン中学の2年先輩でいろんな知識のある千野さんがいつも僕らをリードしてくれていました。千野さんの家は鉄道の関係者ではなかったのですが、どういうわけか同じ宿舎に住んでいて、餅を搗いてはそれを売って生計を立てていました。
 千野さんの発案で、短波ラジオを使って日本からのラジオ放送を聴こうということになって、いろいろ試みましたが、雑音が多すぎて殆んど聴き取れないのです。それで、それぞれが聴いてきたものを持ち寄って、こういうことをしゃべっていたのではないか等と推測したりしていました。
 僕らが一番知りたかったのは、当時日本で流行っている歌の歌詞とメロディーでした。NHKの放送劇「鐘の鳴る丘」の主題歌「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台――」なども、その時懸命になって聴こうとした歌でした。
 しかしなんといっても、僕らの感情にぴったりであったのは「異国の丘」ですね――「今日も暮れゆく異国の丘に、友よ辛かろ切なかろ、我慢だ待っていろ嵐が過ぎりゃ、帰る日も来る春も来る」というのは、まったく僕らの境遇だなと思いました。
 こういうことを通じて分かってきたことは、ああ日本も戦時中と変わったな、ということでした。「りんごの歌」など聴いたときは特にそう思いました。歌というものは情報を持っているのですね。
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