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 ハルピンから大勢の日本人が帰国していったあと、日本人の住んでいた周辺には大量のゴミや汚物が残りました。残留させられた日本人は、その後始末の清掃作業に狩り出される羽目になりました。私はこうした光景を見ていて、子供ながらほんとうに悔し涙に暮れました。
 ただ、幸いハルピンでは私たちは国民党と共産党の内戦に直接巻き込まれるということはありませんでした。小学校で一緒であった「花園会」の人のなかには、新京で内戦に巻き込まれお父さんを亡くした人もいました。新京、奉天、四平街等、南に行けば行くほど内戦に巻き込まれた人が出て来ます。
 伯父や妹たちを送り出したあと、三井氏と私たちは林口へ行きました。林口は牡丹江の北東に位置しますが、佳木斯(チャムス)に行く線や虎林に行く線が交叉する、いわば交通の要衝に当たるところです。おそらくそこを拠点にして鉄道の修復をやったのではないかと思います。
 日本人が家族を含めて三、四百人いましたけれども、そのなかに私と同じ年頃の子が3人いました。そうしましたら、鉄道の職員で北大を出た広鰭(ひろはた)さんという方が寺子屋教育のように、私たちに数学とか物理とか英語を教えてくれました。これは非常によかったです。
 当時、各家庭では燃料に汽車が落としてゆく石炭ガラを拾い集めて使っていましたが、私はこの「ガラ拾い」は物貰いのようでみじめな感じがして、徹底してさぼりました。要するに“格好悪い”のです。逆に、中国人の青年が穿いているラッパズボンが、私の憧れていた海軍のイメージと重なって“格好良い”服装に見えました。
 林口にいたあいだのことでしたが、三井氏の未熟児の娘が5歳で亡くなりました。畑で荼毘に付し、夜警をして朝まで見送りました。2度目の経験でした。
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