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 終戦の詔勅を寮の一室で聴きましたが、全然聴き取れませんでした。ただ、先輩の方々が「日本が負けた」という話をされているのが聞えてきましたから、なんとなく分かりました。
 この日を境に変ったこととして子供心に強烈に残っているのは、それまで苛めていた中国人の同輩たちから、逆にやられたことです。同じ一角に住む中国人の子と喧嘩になったとき、彼は敢然と反抗してきて、私は突き飛ばされたのをはっきり記憶しています。彼らにとっては、今までやられていたのだから、やり返すのは当たり前ですよね。
しかし、中国人の子供でもなかには終戦になっても前と変わらずよく付き合ってくれた子もいました。私を兄のように慕ってくれ、頼山陽の漢詩「十有三春秋 ・・・・・」を暗誦するとびっくりし、ますます尊敬してくれるのでした。
 
  最初に入ってきたのは、ロシアの兵隊でしたが、ちまたでは“囚人部隊”と言われていました。みな頭を剃った粗末な身なりで、それはひどかったです。「ダワイ!ダワイ!」と毎晩略奪に来ました。酔っ払ってやってきて、先ず時計を奪う、万年筆を奪う、それから女性を襲う。二人連れでやって来て酔った勢いでハーモニカを吹き、抜刀してコザック・ダンス(?)を踊り始める。生きた気がしませんでした。しかし、初めのうちは憲兵もいませんから、彼らのやりたい放題でした。
 そのうち正規軍が入ってきました。赤軍の正規軍はたしかに素晴らしかったです。彼らがやって来てからは、夜酔払った兵隊が押しかけてくると、ぼくらはゲー・ペー・ウー(GPU)――所謂ソ連軍の憲兵隊に当たる――の詰所へ駆けて行って彼らに来てくれるよう頼みました。ゲー・ペー・ウーがやって来ると、ひどいときは見ている目の前で銃殺でした。特に強姦なんかやっているのは、有無を言わさず銃殺でした。物を取っているのは、わりと大目に見ていましたが、女性に対する犯罪に対しては非常に厳しかったです。
 この頃になると、ぼくらも食べていくために、大工の見習いを手始めに、餅売り、タバコ売りなど、いろんなことをやりました。ソ連の正規軍の兵士たちの中には、タバコを買ってもお釣りはいいよと言ってくれる者もいました。もちろん真赤な軍票でしたけれども。
 ロシア人の軍隊で印象に残っているのは、彼らが合唱しながら行進していることでした。しかもちゃんとハーモニーができているのです。低音のきいた勇ましい音色に聞き惚れました。それから、女性の兵隊さんがいるのには驚きました。若いスタイルのいい女性が長靴をはいてスカート姿で闊歩しているのです。しかも、零下30度もあるのに彼女たちは帽子を斜に被り、耳かけも掛けず、コートを羽織って歩いていました。惚れ惚れと眺めてしまいました。
 
戦後の仮中学校
それからしばらくして八路軍が入ってきました。このときは、正直言って怖かったです。「パーロ(アカ、八路軍のこと)が来る」と聞いて、みな外に出ないで、じっと家のなかに閉じこもっていました。このときは伯父もハルピンへ出てきて一緒に住んでいましたが、「外に出てはいけない」と言うので、一日中家のなかに隠れていました。しかし、外を覗きたくなるので、窓からこっそり覗くと、一列縦隊にずらーっと並んだ兵隊が入ってくるのです。服装たるや点々ばらばらで、百姓のような者もいれば、軍服らしいのを着ている者もいる、鉄砲を持っている者もいれば、持ってない者もいる、それはまちまちでした。鍋釜を背負っているのは奇異に感じました。しかし、みな寝袋は担いでいましたね。これが軍隊かという感じがしました。
 結局、八路軍はわれわれに対して何一つ悪さをしませんでした。これは素晴らしかったです。例の「三大紀律・八項注意」が軍隊内に徹底していたのでしょう。一日経ったらそれが分かりましたから、翌日からわれわれも堂々と出て行きました。八路軍が来てから、治安はぐっとよくなりました。
 落ち着くにつれ寺小屋の中学校が開校され、毎朝「朝はふたたびここにあり・・・・・・」の歌を合唱し、戦時中とは異なる雰囲気を感じました。
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