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2 ハルピンでの生活

 「ハルピンに着いたときは、ちょうど4月から新学期でしたから、私は花園小学校の5年生のクラスに転入しました。
  ハルピンに来て先ず驚いたのは、外国人、つまり西洋人が歩いているということでした。これはショックでした。日本では、外国人といえばすべてスパイですから、「どうしてスパイが歩いているのだろう?」と不思議に思いました。
 もう一つ驚いたのは、ハルピンは食べ物が豊富であるということです。特にお菓子がたくさんあったことです。
  それから、学校に入って驚いたのは、私が長崎弁で話すので、クラスの皆から笑われたことです。ハルピンでは、みんな標準語で話していました。
  母は中央銀行――本店は新京にありましたが、そのハルピン支店の寮母のような仕事に就きました。伯父は私たちの家族を引き取ったつもりでいましたから、私たちはみな伯父の家で生活しました。
  私が将来進むべき目標にしたのは、海軍士官です。これはその恰好に憧れたのでしょう。そのために先ず身体を鍛えることを始めました。それから勉強ができるようになること。そして3番目は、手でいろいろなものを覚える――たとえば洗濯、縫物、編み物、ミシン、アイロンかけ等が自分でできるようになることを目指しました。
 私は厳原での小学校4年間、ずっと級長をしていまして勉強のほうは自信をもっていました。あとは身体を鍛えることだと思っていましたが、ここへ来たらそれが簡単に打ち砕かれました。もっと優秀なヤツがいるのです。一学年5クラスあり、一クラス40人ばかりいましたから全部で200人ほどいたのでしょうが、上には上がいるものだと思いました。
 
ハルピンの祭り
ハルピンには日本人の小学校が三つありました――桃山小学校、白梅小学校、花園小学校。そして、そのなかでは花園が一番大きかったです。この土地には元々ロシアの女学校があったのですが、日本が接収してそこに小学校を作ってしまったのです。花園小学校には中国人の子も朝鮮人の子もいましたし、そしてごく少数のロシア人の子もいました。私がよく覚えているロシア人の子は、お下げ髪でドッチボールに滅法強い子でした。中国人・朝鮮人の子は日本語の発音が悪いので、すぐ分かりました。だからイジメもありました。子供の世界にイジメは付き物です。しかし、少なくとも私としては彼らとの接触は、インターナショナルな感覚で付き合ったという印象をもっています。
  翌1944年、6年生のとき、私は花園小より代表5名のうちの一人に選ばれてハルピン放送局で詩の朗読をしたことがありました。詩の作者は忘れましたが、「敵機はついに満洲を襲った・・・」といった出だしの詩でした。満洲は当時まだ本土とちがって戦争をしているという感じはありませんでしたが、それでもこの頃になると奉天あたりまでB29が偵察にやってきたというような話が聞かれるようになっていました。そういうことに対する危機意識を吹き込もうという意図があったのかもしれません。
  この詩の朗読に、私のような者がどうして選ばれたのか分かりませんが、これに出たお蔭で、長崎弁を徹底的に直されました。そして、ご褒美に模型飛行機の材料一式をもらいましたが、これは非常に嬉しかったです。
(日本に帰ってきてから後の話になりますが、私が6年生のときの花園小学校の生徒たちで「花園会」を作って毎年集まりをもっています。これはクラス単位ではなく、学年全体の会ですが、もう60年あまり続いています。)
  終戦の年の4月、ハルピン中学に入学しました。花園小学校からハルピン中学へは90パーセントの進学率でしたから、ほとんどが中学へ進みました。男ばかりの学校でしたが、1クラス60名で4クラスありました。女子の学校は富士高等女学校一校だけでしたが、これは花園小学校の斜め前にありました。
  中学でも私にとってはショックがありました。私は海兵(海軍兵学校)を目指していたのですが、相当な難関でしたから学年で2,3番にいないと入れないことが分かってきたのです。中学になるとまた周辺から優秀な連中が集まってきましたので、私など10番に入るのがやっとという状態でした。生徒は満州国の官吏や満鉄社員の子息が多かったように思います。」
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