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上野通夫氏 第2回 4.敗戦後の満州〜6.八路軍へ


4 敗戦後の満州

  召集解除後、元の職場に戻りました。たしか8月の終わりごろでしたが、会社の出納係といっしょに通化に退職金とか給料とかを取りに行きました。日満のレートは一応1対1でしたが、満州のお金で、200万程リュック2つかついで帰って来ました。その時分は通化も荒れてませんでした。日本人旅館に泊まっても暴動とかの気配はなく、平穏でした。但し鉄道警備隊の中国人は武器をもっていたから、夜間の警備の時に脅かされて物をとられた人はいたようですけど。やらんと殴られるからね。私も新しいオーバー着ていたら、「いいなこれくれ」と言われ、どうせ取られるんだから、「やるよ、代わりにお前のよこせ」と交換しました。
  問題は年が明けて2月3日の暴動のあとです。満州の北の東寧に陸軍の航空隊があったんです。そこの連中が20人程トラックに銃器を積んで逃げて来たのですが、そういう連中は2月3日に荷を開けられてだいぶしごかれたみたいです。もとから炭鉱にいた人はどうということなかったですよ。通化に駐留していた部隊は朝鮮系が多かったみたいですが、朝鮮人は日本人に対する憎しみが強かったようですからね。そりゃあしょうがないですよ、やることもやってるからね。創氏改名というのが一番悪かったですね。日本へ来た連中への当りもきつかったですしね。


通化暴動
 通化に進駐したソ連軍は45年11月にはすべて撤退し、そのあと通化の政治主導権を握ったのは共産党・八路軍であった。ここにはソ連軍の侵入で北から追われた日本人がたくさん流れ込んでいて、そのなかに関東軍の残留将校や旧満州国の元官吏も多数混じっていた。この残留将校や元官吏たちが中国国民党の特務と組み、政権を握っている共産党・八路軍を転覆させようと秘かに武装蜂起を計画したのが、46年2月3日の通化暴動である。中心人物は元関東軍の藤田実彦大佐であった。 日本人の一般居留民のなかにも暴動に参加しようとした者がいた。しかし、計画は直前に発覚し徹底的に弾圧された。戦後の中国で日本人が関わった事件としては最大のもので、このとき民間人も含めて日本人千数百名が命を落としたといわれる。

藤田実彦元大佐(松原一枝『通化事件』チクマ秀版社、より転載)
  通化事件についていえば、前兆は全然ありません。暴動のとばっちりで炭鉱の日本人全員倉庫に監禁されたんですが、ほうりこまれた時、「なんでや、なんでや」と聞くんですが誰も知らなかったです。連絡がないですからね。事件後は先の航空隊の連中が痛められたということぐらいで、別に変わったこともなく同じように石炭を掘ってました。年内は通化に出て行っていないし、通化から逃げてきた人もいないし、状況はわからないですね。ただ藤田大佐のめかけの娘が避難してきていたようですが、その後どうなったか知りません。









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