logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト


山下正男氏 第14回:24.人民解放軍の攻勢〜25.帰国の夢断たれる

24 人民解放軍の攻勢

――八路軍が反撃に転ずるのは、いつ頃からですか?

 共産党は、反撃に転ずる前に、軍隊の組織の整備と土地改革を行いました。
 47年3月に、八路軍と新四軍が組織的に統一されて、人民解放軍と名乗るようになりました。
 またその年の10月に「土地法大綱」を決めて、農村における土地改革に着手します。地主から土地を取り上げて、土地を農民に開放し、農民を味方につけていきました。
 人民解放軍が本格的に反撃に転じてくるのは、48年に入ってからです。
 東北地方では、佳木斯(チャムス)や鶴岡まで撤退していた東北解放軍も48年に入ると、どんどん南下を始めます。
 3月には、吉林や四平街を占領し、9月には遼瀋戦役を発動して長春や瀋陽を占領してゆきます。
 東北以外の地域でも、解放軍は、3月に山東半島の威海衛を占領し、9月には済南を占領します。

 山西省でも、47年5月から7月にかけて「晋中戦役」と呼ばれる大きな衝突があり、閻錫山の軍隊は徐向前の率いる解放軍に大打撃をこうむりました。
 このころ、閻錫山は太原周辺と平遥以北の晋中平原地区を保っているのみでした。閻錫山の第61軍は平遥付近で解放軍と衝突して撃破され、救援に行った1万2000名の親訓団も包囲されて全滅します。
 趙承綬の第7集団軍数万は晋中に入りましたが、徐向前の3個縦隊に敗れ、祁県(きけん)城内に逃げ込んでしまいました。
 閻錫山は趙承綬軍救出のため、ついに残留日本軍の「暫編独立第十総隊」の主力に出動を命じました。司令官今村方策は全兵力をもって祁県に出動しましたが、解放軍にほとんど全滅に近いかたちで撃破されてしまいました。
 今村司令官ら少数は、百姓姿に身を変えて辛うじて逃げ帰ったものの、旅団長元泉馨は重傷を負い、水野参謀に拳銃で頭を撃たせて死亡しました。続いて水野も自ら拳銃で頭部を撃ち自殺します。第1団団長の小田切正男は砲弾で重傷を負い、解放軍の手によって病院に運ばれる途中絶命しました。第3団団長住岡義一、第4団団長増田和は敵の捕虜になりました。

晋中戦役で捕虜になった日本兵たち
 この戦闘で、十総隊の約300名が戦死および負傷しました。私の所属していた第6団の団長布川直平も戦死しました。親友の安田稔少尉もこの戦闘で斃れました。また、私が残した第3中隊隊員の中からも、西尾文人・三倉釜平の両君を戦死させてしまいました。

 岩田清一は十総隊の主力を支援するため、急遽太原の軍官と中国人新兵で「岩田挺身隊」を組織し、楡次・太谷方面に出動しましたが、私はこの岩田挺身隊に加わっていました。この挺身隊は楡次の少し先まで行ったところで、そこからはるか前方の解放軍めがけてありったけの野砲を撃ちこんだだけで引き返してきました。
 祁県での作戦中、今村は政治部長の長野賢を前線から太原に帰し、留守隊員と一般居留民に動揺が起こらないように、「前方は正に勝ち戦をやっている」と宣伝して、後方の補給を強化するよう命令しました。
 それを受けて、城野は経理処長の小林正孝に飛行機で前線に弾薬と食糧を運ぶよう指令を出して、空輸をはじめます。
 そんななかで、十総隊全滅の報が伝わってきました。
 居留民や留守隊員の中はにわかに浮き足立ってきて、帰国を申請する者が次々と出始めました。
 太原に逃げ帰った今村はこの情景を見て、城野ら幹部を動員して、日本人の帰国を懸命に食い止めようとします。
 「事ここに至って、再び面の皮厚く帰国しようとする。死んでいった戦友に申し訳が立つというのか?」といって脅し、彼らを「臆病者!」「卑怯者!」「国賊!」と罵りました。このため、今村配下の第2団の猪狩上等兵はピストル自殺し、伊藤上等兵は手榴弾で自殺しました。
 一方で今村は閻錫山と図って、「破格の待遇改善」を公布しました。
 「国内の家族を安心させるために、現行の給料以外に家族手当を出す。将官級には月30ドル、佐官級には12ドル、尉官級には8ドル。すべて米ドルで支給し、日本へ送金する」
 「タバコは現物支給し、別に綿布を配給する。その中には家族の分も含む」
 といったものでした。しかし、もはや大勢はいかんともしがたいところへ進んでいました。


文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 2007 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.