logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト


 防衛省に残る受信・発信電報で第1軍司令部と各兵団との応答を見ていきますと、この「鉄道修理工作部隊」なるものの実態が浮かび上がってきます。
 編成命令が出たものの、各兵団で鉄道の修復に携わる部隊が編成されたわけではありませんでした。それでは、この「鉄道修理工作部隊」は何をするためのものだったのでしょうか?
 実は、編成命令を受けた大同の至誠兵団(第4独立警備隊)では、一体この命令が何のためのものか、また編成した部隊でどういうことをするのか分からなくて、第1軍司令部に問い合わせているのです。大同は司令部のある太原からもっとも離れていた上、終戦後に第1軍に組み入れられたという事情があり、連絡が密でなかったという面もあったのでしょう。この大同の兵団に答えた司令部の電報を紹介しましょう。
 「鉄道修理工作隊ハ第2戦区ニ徴用セラレタルモノニシテ 第2戦区ノ使用スル部隊ナリ 従テ第2戦区ヨリ軍経由ニテ命令セラルルモノニシテ 之ガ為第2戦区ヨリ新ニ具体的任務ヲ附与セラルル迄ハ 兵団トシテ従前通ノ形式 即チ必ズシモ今直チニ編成スルノ要ナク 編成ヲ準備スレバ可ナリ」(2月5日「乙集参甲電第22号」)
 これは、先の南京の総軍に答えた返答とはだいぶ違います。つまり、「鉄道修理工作部隊」といっても、鉄道の修理作業に従事してもらうわけではないから、兵団の各部隊は今迄どおりの守備についておればよろしい。何をやるかということは、そのうち閻錫山の方から具体的任務を指示して来る、それを軍司令部経由で命令するから、いつでもその態勢がとれるように準備しておけ、というわけです。
 しかし、「鉄道修理工作部隊」が必要なところが全然なかったというと、そういうわけではありません。塁兵団(独立歩兵第14旅団)では、八路軍に包囲され鉄道は至るところ寸断されていましたから、ここでは特務団とは別に「鉄道修理工作部隊」が実際に編成されました。また、楡次にいた将兵団(第114師団)でも後日「鉄道修理工作部隊」が編成された形跡があります。
 こうして見てくると、「鉄道修理工作部隊」の編成命令は、ほとんどの兵団においては、山西残留を承諾する者を選び出すということであったようです。この頃の電報に「特務団留用受諾者」という言葉がさかんに登場しますが、「鉄道修理工作部隊」編成の実態は、実は「特務団留用受諾者」を選別することであったと言えます。

 山岡参謀長が、第2戦区よりそのうち具体的任務の要請が来るだろうと言っていましたが、その任務は、やがて次々とやってきます。残された電報で確認できるものを列挙してみましょう。
 まず最初は、2月15日、戦車隊の編成要請が来たとして、各兵団に発した「特務団戦車隊編成ノ件通牒」という命令電報です。これには「軍事極秘」の印が押され、第1軍参謀長(山岡)名で発信されています(乙集参甲密第16号)。
 「今般第2戦区長官ノ指示ニ拠リ 特務団戦車隊ノ編成ヲ指導援助スル如ク定メラレタルニ付 貴兵団ニ於テ編成責任者ヲ選出シ該部隊留用者ヲ徴集スル如ク戦車隊ノ編成ヲ指導援助セラレ度」
 2月19日には、第1軍命令として軍司令官・澄田賚四郎の名で各兵団に「軍ハ第2戦区司令長官ノ命ニ基キ特務団工兵隊ノ編成ヲ援助セントス」として「特務団工兵隊」の編成を命じています(一軍作命甲212号)。
 3月5日には、第1軍参謀長の名で軍経理部長・軍医部長宛に「特務団病院」を編成開設するとして、その編成を命じています(乙集参甲電第194号)。
 3月6日には、第1軍命令として軍司令官・澄田賚四郎の名で各兵団に「特務団獣医隊」の編成を命じています(一軍作命甲217号)。
 以上のものよりずっと早く始まっていたのは、日本軍による閻錫山軍の幹部教育・兵隊教育でした。これは特務団が結成される前から開始されており、日本軍は将校・下士官・兵をセットにして閻錫山軍へ送り込み軍事訓練を施していました。1945年12月20日に、訓練の具体的要領・訓練期間等を各兵団に通達したものが残っています(「乙集参甲電第645号」)。

 これら一連の文書は、すべて軍の「作命」の形式をとった正式命令です。こうした命令を受けて、多くの残留将兵が閻錫山の軍隊に入っていきました。
 裁判において最高裁の最終判決が、「原告らに第1軍の命令があったとは認められない」と言っていますが、こうした残存資料がきちんと検討されたとはとても思えません。


文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 2007 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.