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 またこの時期は、ちょうど特務団の編成が行われているさなかにありました。元泉は残留派の急先鋒です。他の兵団に先駆けて真っ先に特務団の編成を行っていました。2月12日の電報で、司令部の山岡は南京の総軍に宛て、次のように報告しています。
 「独立混成第14旅団ノ編成ヲ担任セル部隊2500名ハ既ニ編成シアルモ 他兵団ノ編成ヲ担任スル部隊ハ未ダ編成ヲ準備シアルノミナリ」
 他の兵団はまだ準備段階であるのに、独歩14旅団だけは編成ができてしまったというのです。しかし、元泉らによる強引な特務団の編成は、旅団内部に帰国組と残留組の綱引きのようなせめぎあいを引き起こしていました。2月28日の電報は次のように報じています。
 「今次作戦終了後 特務団転出希望者激増シ 2月27日現在総計1200名以上ニシテ尚増加ノ傾向ナリ
 尚目下次期作戦ヲ予想セラレアルヲ以テ(沁県南方ニ敵10個団集結中) 敵情ト特務団ノ集結編成ト両立シ難キ状況ニアリ 是非他兵団ヨリ当管内ニ警備兵力ヲ増援セラレ度」
 一旦特務団入りを了承しながら、帰国組の説得で考えを翻して帰国しようとする兵士が続出し、1200名にも達しているというのです。
 共産軍との本格的決戦を始めようとしているとき、内部からこうして次々と脱落者が出てきたのでは対応しきれないと、元泉は援軍を要請しています。しかし、この電報には山岡道武参謀長の筆跡で、「本旅団ノ特務団編成時期ガ多少他ヨリ遅ルルコトアリトモ 他兵団ヨリ警備兵力ヲ増加スルハ不可ナリ」と赤字で記されています。援軍は送られることがなかったのです。
 それから5日後の3月5日の電報は、さらに切迫した状況を訴えます。
 「1 兵団ノ緊迫セル状況ヲ収拾スル為 特務団要員ト復員部隊トヲ区分シ 軍ノ崩壊ヲ防止セントス
 2 現在ノ敵情下 兵力不足ニ困窮シアリ 当兵団ヨリ派遣シアル太原貨物廠勤務中隊ヲ至急原所属ニ復帰セシメラレ度」
 このまま行けば、残留者の脱落を防ぎきれなくなって兵団が崩壊してしまう、それでついに帰国組と残留者を切り離すことにした、と報告しています。そして、他の部隊からの援軍が送られないなら、塁兵団から太原に出している中隊をこちらに返してほしいと要請しています。
 山岡は、「兵団ノ緊迫セル状況」にアンダーラインを引き、「何故如斯(かくのごとく)ナリタルヤ」といぶかって書いています。他の兵団に先立って、最も早く特務団の編成を終えた、その意味では模範的な独歩14旅団のなかで何が起こっているのか、山岡はまだ把握していなかったのでしょう。

 「三人小組」が独歩14旅団のいる現地視察を終えて太原に帰り、アメリカ代表が、「日本軍の武装部隊が再編成されている」と言って、閻錫山に強硬な抗議を提出することになるのが、この3月上旬です。
 また、南京の支那派遣軍総司令部から宮崎舜市中佐が、山西省で復員帰国が全く進んでいないというので太原に調査に来たのは、それから数日後のことでした。
 「三人小組」と南京総軍の宮崎中佐から、時を同じくして厳しい批判を浴びて、山岡や岩田にとっては、彼らが画策してきた残留計画そのものが崩壊しかねない事態に陥ります。
 ところが、山岡たちのそんな心配をよそに、3月14日の電報は、独歩14旅団が発した作戦命令を伝えてきました。
 「1 昨13日夜半来 約3個団ノ敵ハ寨上(さいじょう)村ヲ包囲攻撃中ナリ
 独立歩兵第243大隊主力ハ 本14日13時来遠鎮(らいえんちん)出発 救援中
 2 旅団ハ該地附近ニ蠢動スル敵ヲ徹底的二覆滅セントス
 3 布川大尉ハ特務団編成要員ヲ以テ1大隊(2中基幹)ヲ編成シ即時出発 独立歩兵第243大隊ノ戦闘ニ協力スベシ」
 司令部の山岡は、これを見てカンカンに怒ったのでしょう、電文の頭に赤字で大きく「本作戦命令ハ擅権(せんけん)ノ罪トナラヌカ研究ノ事」と書き入れています。「擅権」とは、権力を濫用することです。一旅団長がこのような作戦命令を独断で出すのは越権行為であり軍規違反ではないか、と怒っているのです。
 さらにこの中の2箇所の「敵」の語にアンダーラインを引き、それぞれ「敵ナキハズナリ」「敵ニアラズ」の書き入れが見えます。
 さらに翌3月15日には、前日の作戦命令の続きが打電されてきます。
 「1 中共軍ハ河南及山東ヨリ新ニ約10個団増加シ 来遠鎮、武南(ぶなん)間ノ交通線ヲ破壊シ日本軍ヲ孤立セシメントス(中略)
 2 兵団ハ該敵ヲ徹底的ニ撃滅シ将来ノ禍根ヲ断タントス
 3 戦闘司令所ハ明15日来遠鎮ニ前進ス
 丸山良大隊 及特務団要員部隊主力 及将兵団派遣大隊砲2中隊 及増加山西軍ヲ以テ 16日ヨリ寨上附近ノ敵ヲ攻撃ス(以下略)」
 山岡参謀長は、2にアンダーラインを引き、特に「該敵」の「敵」に三角印をして、前日と同様に「観念ヲ是正セザルハ不可 日本軍ニ敵ハナキ筈ナリ」と書いています。どうしてこれほど「敵」という言葉にこだわっているのでしょう。推測するに、山岡参謀長はこのとき「三人小組」から厳しく糾弾され、宮崎中佐からも残留部隊の編成を難詰されているさなかです。それに対して、「我々は閻錫山の要請に応えて、彼らの軍隊を教育・訓練の面で手助けするだけで、武器を執って「敵」(共産軍)と戦争するのではない」――「三人小組」や宮崎大佐に対して、山岡は残留をこのように釈明していた筈です。その折衝のさなかに、山岡の釈明を打ち消すような戦闘行動を、元泉馨の独歩14旅団はとっているというわけです。
 さらに、3の「増加山西軍」にアンダーラインを引き、「何タル事ゾカ 如斯(かくのごとき)事ガ俘虜デ出来ルノカ」と怒りをぶちまけています。我が軍はいま捕虜の状態にあるのだ、捕虜の分際が降伏先の軍隊を取り込んで率先して戦争を始めるとは、一体何事であるか!
 山岡は、事ここに至って遂に独歩14旅団に撤退命令を出し、元泉旅団長を解任し指揮権を解きます。そして、同旅団を楡次に駐屯する第114師団(師団長・三浦三郎中将)の指揮下に入れます。この命令電報は見つかりませんが、3月19日、21日の独歩14旅団からの電報や司令部からのその後の指示電報がそれを伝えています。
 「旅団は1軍作命甲第219号ニ基キ3月19日12時現態勢ノ儘(まま)第114師長ノ指揮ニ入ラントス」(3月19日)
 「塁兵団未曾有ノ窮境ニ際シ 元泉少将ガ指揮権ヲ失フ 其ノ責任ヲ回避スル如ク見ラルルハ将兵ニ大ナル動揺ヲ与フルモノナリ 御参考迄ニ」(3月21日)
 また、司令部からの指示電報が、3月21日に2通発信されています。
 「元泉少将ハ別命アルマデ現地ニ在リテ第14旅団長ノ業務ヲ援助スベシ」
 「明22日又ハ23日調停ノ為軍事小組貴地ニ到ル筈ニテ 第2戦区側ノ希望モアリ元泉少将ハ速カニ太原ニ来ラレタシ 依命」
 「三人小組」が現地を訪れて調停することが決まる一方、元泉は太原の司令部に出頭するよう命令しています。
 山岡は独歩14旅団に対する今回の処置をすぐに南京の総軍司令部に打電し、21日には総軍からの指示電報が届きます。
 「1 独立歩兵第14旅団ハ速カニ独力ヲ以テ平地地方ニ撤収セシメラレタシ
 2 右撤収ニ当リテハ状況之ヲ許ス限リ兵器ヲ交付(為シ得ル限リ現地山西軍)シ徒手ニテ集結セシメラレ度(以下略)」
 南京の総軍司令部は、いまや命令を発する立場にはありません。命令を発するのは国民政府であり、南京総軍は国民政府の命令を伝達するのが主要な任務になっていました。しかし、戦前の軍機構は弱まったとはいえゆるやかに維持されていましたから、3月26日の総軍から第1軍への電報は、次のように指示しています。
 「1 独立歩兵第14旅団ヲ速カニ太谷附近ノ同蒲線沿線地区ニ集結スベキ件ニ関シテハ(中略)小組ノ現地視察時撤収ヲ断行セラレ度
 2 貴軍ノ苦衷察スルニ余リアリト雖モ現地山西軍ノ不法命令ニ屈スルコトナク(中略)速カニ独立歩兵第14旅団ノ撤収ヲ断行セラレンコトヲ切望シテ止マズ」
 撤退は総軍の指示どおりに行われ、3月29日の独立歩兵第14旅団から第1軍司令部への電報は、「三人小組」の監視下に撤退することを報じています。
 「旅団ハ軍令ニ遵(したが)ヒ 明30日沁県ヨリ行軍ニテ逐次撤収ヲ実施シ 途中順調ナレバ4月2日迄ニ来遠鎮ニ集結ノ予定
 小組「キング」大尉ハ撤収ヲ確認保護スベク 本29日9時来遠鎮発南溝ニ向ヒ 乗馬ニテ前進セリ」
 撤収は「三人小組」の調停によって平和裏におこなわれ、独歩14旅団をめぐる事態は無事落着をみました。

 このように、独立歩兵第14旅団は、閻錫山軍と共産軍の激しく衝突する最前線にあって、閻錫山側について積極的に戦闘に加わり、そのためにアメリカ代表から「武装解除したはずの日本軍が、軍組織を保ったまま戦闘している」と強硬な抗議を受けることになってしまいました。そして、特務団そのものが解散に追い込まれることになるわけです。


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