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山下正男氏 第4回:7.戦後の山西省〜8.日本軍上層部の企み

7 戦後の山西省

――閻錫山は日本軍と取引をしていたとはいえ、閻錫山軍はあくまでも国民党軍の一部分であるわけですね。そうすると、戦争が終わって新たな状況に変わったとき、国民党のなかにおける閻錫山の立場にはなにか変化が起きたのでしょうか?

  華北には、戦争が終わった時点で、第2戦区の閻錫山軍以外に、有力な国民党の軍隊はいませんでした。
  蒋介石は、日本が降伏したとき、第2戦区司令長官である閻錫山に山西省を占領していた日本軍を接収する責任を負わせました。
  蒋介石も閻錫山も、山西省のあちこちに解放区を作っている八路軍をこの地から叩き出したい点では、思いは同じです。しかし、それから先は両者の利害が一致しているわけではありません。蒋介石は、本当のところは、こんな独立王国を作りたがるような閻錫山を山西省から追い出してしまいたいのです。
  閻錫山も蒋介石の胸のうちを承知していますから、八路軍を叩くために蒋介石に援軍を送り込んでもらったりしたら、山西省の実権を蒋に取られてしまうことになります。
  蒋の助けは借りたくないといっても、閻の軍隊は劣弱な軍隊ですので、とても自力で八路軍に対抗することはできません。そこで考えついたのが、降伏した日本軍を自軍に留用し、それで八路軍に対抗しようという企みでした。

  ただ、閻錫山は、自分が望むとおりの兵力を日本軍が残してくれるかどうかの目処がつくまで、山西省西南部の隰県(しゅうけん)にある司令部に巣ごもりしたままで出てこようとしません。そもそも閻錫山の軍の主力は、戦争中ずっと陝西省に撤退していて山西にはほとんどいませんでした。
  日本軍司令部から閻錫山に「太原に帰って降伏を受理してほしい」と催促されても動きません。守ってくれるはずの自分の軍隊がいませんから、途中で八路軍に襲撃されるのが怖いのです。
  8月21日、閻錫山は王靖国上将を日本軍の師団司令部のある臨汾に差し遣わし、両者の間でつぎのような協定が結ばれました。
  1. 中日両軍は友好関係において共に八路軍に対し防衛する。
  2. 日本軍の武装解除は行わず、日本軍が山西省を出る場合に自発的に山西軍倉庫に収納する。
  3. 駐屯地の交代は緊密な連絡のもとに逐次行い、八路軍の侵入を防ぐ。
  4. 日本軍は食糧を6ヶ月間分保持し、余剰は山西軍に引き渡す。
  そこで8月末、第1軍司令部は、伊藤参謀を警護隊長として装甲列車2輌編成を介休(かいきゅう)まで派遣して閻錫山を迎えました。これには戦闘経験が多く体格のよい古年次兵ばかりで編成された軍直属の親衛隊「桜部隊」を閻錫山の護衛として差し向けました。「桜部隊」は閻錫山の閲兵を受け、その後の直接警戒に当たりました。
  山岡道武参謀長も自ら平遥(へいよう)まで迎えに行き、特別列車に同乗して太原に向かいました。車中で閻錫山は山岡に言いました。
  「日本軍は負けたとはいえ、よく統制され規律ある貴方の部下将兵を見て羨ましく思います。日本軍は中国軍に負けたのではありません。米軍の物量に負けたので、精神的には負けていません。優秀な日本軍をあげて、私に協力してくれませんか。」
  山岡はこれに対して、「研究して希望に沿うよう考えて見ましょう」と答えました。この山岡の一言が閻錫山を力づけたといいます。
  閻錫山は装甲列車で北上し、太原に無事入城しました。「閻主席の光復慶祝。万歳、万歳」と垂れ幕がかかり、爆竹が全市に鳴り響くなかを帰ってきた閻錫山は大したご機嫌でした。
  第1軍司令部も、閻錫山が執務する長官部や東花園と呼ばれる私邸を完全に清掃して、彼を迎えました。そこはそれまで日本軍が使っていたのです。


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