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インタビューリスト


4 8・15前後の中国国内の状況

――お話を伺っていますと、基本的なところで、僕らにはなかなか分かりづらいところがあります。
 先ず、戦争が終わっていながら、八路軍がどうして日本軍を攻めてきたのか?
 一方、日本軍は全面降伏していながら、戦争中と変わらない軍隊組織を維持して八路軍と戦っているようですが、そんなことが一体可能だったのか?


 そのあたりは、色々な要因が絡んでいますから、少しずつ整理してお話ししましょう。
 日本の降伏が決定的になったのは8月9日、ソ連軍が満洲に進撃したときです。
 中国共産党は同日毛沢東・朱徳からスターリンに宛てて、「我々はソ連政府の対日宣戦に熱烈な歓迎の意を表する。中国解放区の1億の人民とその軍隊は、極悪の日本侵略者を撃滅するであろう」とソ連の参戦に呼応する電報を打ちます。
 そして8月10日に日本政府が連合国に無条件降伏を通告すると、朱徳八路軍総司令は同じ日に全軍に「期限をきめてその地方にいる日本軍の武装を解除し、もし降伏と武器の引渡しを拒むものがあれば、断固としてこれを撃滅せよ」と命令しました。
 この朱徳命令によって、各解放区の軍隊はただちに日本軍が占領していた各都市と交通線に進撃をはじめました。
 これを知って国民党の蒋介石総統は慌てました。8月11日、蒋介石は八路軍の朱徳・彭徳懐に宛てて命令を発します。
 「18集団軍(八路軍)のすべての部隊は、これまでどおりの地点に駐留して命令を待て。
 敵軍の武装解除、敵捕虜の収容、奪回地区の秩序の回復などの事項については、政府がすでに統一的計画にもとづいて決定し、それぞれ別個に実施を命じている。各部隊は、今後かってに行動してはならない。」
 その一方で、蒋介石は国民党軍には「すみやかに敵軍の降伏を処理せよ」と命令しました。

――蒋介石が共産党・八路軍に対してどうして「命令」を発することができたのですか。

 日中戦争が始まった1937年、国民党と共産党は「第2次国共合作」を実現し、抗日統一戦線のために双方の軍隊は「国軍」ということになったのです。共産党の軍隊も国軍の部隊番号で呼ばれることになりました。八路軍は「国民革命第18集団軍」となり、華中・華南にいた共産党軍(紅軍)は「国民革命新編第4軍」(新四軍)となりました。そして、蒋介石が国民革命軍の最高司令官ということになったのです。
 ですから、形の上では蒋介石は一応共産党軍にも命令を出せる立場にあったことは事実です。
 しかし、抗日戦争の8年間に蒋介石がやってきた結果はどうなったかと言いますと、中国の北から南までの大事な地方をことごとく日本軍に明け渡してしまい、自分たちは「大後方」(西北と西南の奥地)に逃げ込んでしまいました。
 蒋介石が放棄した日本軍の占領地帯の周辺には、八路軍が日本軍と激しい戦闘を重ねながら入ってきて、各地に根拠地を築きました。そのために、日本軍の支配は「点と線」に追い詰められていったのです。
 国際的な慣習では、降伏部隊の武装解除は、そのとき向かい合っていた相手方の部隊が行うことになっています。
 そうなると、日本軍を武装解除するのは、日本軍との戦線の大部分で戦ってきた八路軍ということになります。
 しかも、国民党軍は武装解除に立ち会おうにも、大後方にいますから、到着するまでに時間がかかります。8月11日の蒋介石の電報には、そうした焦りがありました。
 8月13日、八路軍は総司令朱徳と副総司令彭徳懐の連名で蒋介石に返電を出します。実はこの返電の電文を書いたのは毛沢東であると言われています。
 「我々は二つのニュースを受け取った。一つは貴方が我々に発した命令であり、一つは貴方が各戦区将兵に発した命令である。我々に発した命令では、“これまでどおりの地点に駐留して命令を待て”、と言い、“敵から武器を接収してはならない”と言う。ところが、各戦区に発した命令では、“既定の計画と命令にしたがって積極的に推進せよ”と言う。
 我々はこの二つの命令は互いに矛盾していると考える。前の命令に従えば、進攻をやめ、戦闘をやめることになる。現在日本侵略者はまだ降伏しておらず、時々刻々中国人を殺し、中国軍と戦っている。貴方はなにゆえに我々に戦ってはならぬというのか? 後者の命令のようにするのは、我々は大いに結構だと考える。――「駐屯して命令を待つ」というのは、明らかに民族の利益と一致しない。この命令は貴方が誤って発したものであり、しかも誤りの程度はきわめて甚だしいと考える。従って我々はこの命令を断固拒否する旨表明せざるをえない。」

 国共両党のこうした動きが交錯するなか、日本軍の支那派遣軍総司令官の岡村寧次は、8月18日「対支処理要綱」なるものを書いて、無条件降伏した軍の総司令官としては考えられないような態度表明をします。
 「先ず重慶中央政府の統一を容易ならしめ、中国の復興建設に協力するものとす」
 「延安側にして抗日侮日の態度を持する場合においては断乎之を膺懲す」
 つまり、日本軍は蒋介石・国民政府軍に全面的に協力するが、共産党が武装解除を要求したら、断乎これを撃ち懲らしめると宣言したわけです。(「膺懲」という言葉を使っているのは、戦争中日本の軍部が「暴支膺懲」と言った時の感覚そのままです。)
 先ほどの私たちの部隊が沁県で遭遇した事態は、八路軍が武装解除を要求してきたのに対し、わが布川大隊が岡村総司令の方針に基づいて、玉砕覚悟で徹底抗戦しようとしたものであったのです。

 9月2日、アメリカの戦艦ミズーリ号の甲板で、日本の降伏調印が行われました。
 同じ日、連合国軍総司令部(GHQ)の名義で、日本政府に対し命令が発布されました。
 「中国(東北を除く)、台湾及び北緯16度以北の仏領インドシナにある日本国の専任指揮官ならびに一切の陸上・海上・航空及び補助部隊は、蒋介石委員長に降伏すべし。」
 GHQのこの命令は、先に岡村寧次が日本軍は武装解除を蒋介石・国民政府軍にしか行わない、と言ったことのお墨付きになってしまいました。
 翌9月3日、岡村は、重慶の蒋介石に電報で降伏手続きの訓令を求めました。重慶からは国民党陸軍総司令何応欽(かおうきん)の名で指示がありました。
 「日本軍は、わが軍が指定した部隊が到着するまで武器を持って治安にあたるべし。共匪が攻めてきたら撃退せよ。もし占領区の一箇所でも匪軍に取られたら、日本軍の責任で奪回すべし。」
 「共匪」「匪軍」というのは、中国共産党、八路軍のことです。岡村はこの指示に従って、指揮下の全軍に対して次のような命令を発しました。
 「必ず蒋介石の国民政府軍に投降し、すべての武器・物資と施設は国民政府軍に渡せ。八路軍に渡すことは許さない。もしも武器等を八路軍に渡したら罰する。八路軍が武装解除を強行してきた場合は、武力で抵抗せよ。」

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