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筒井重雄氏 第8回:13.帰国〜14.40年後の再会

13 帰国

――朝鮮戦争が休戦となった1953年には、島津忠承さんたちが中国の紅十字会と話し合って、帰国船を出すことになりましたが。


 「飛行学校で教えていた日本人は1953年に大半が日本に引揚げて来ました。私はそのとき結婚していましたが、それから5年間家内とともに残りました。北京で勉強してはどうかといわれ、北京の学校に行って哲学と経済学と日本問題を中心に勉強しました。日本から『赤旗』を取り寄せて読んだりしていました。
 1958年(昭和33)に帰国しましたが、私は38歳になっていました。日本と中国は国交がありませんでしたから、中国にいる間、家との連絡は一切取れませんでした。舞鶴に上陸して、初めて親族と連絡をとれましたが、両親は亡くなっていましたし、私の群馬県の家は、妹が婿をもらって後を継いでいました。長兄は戦争中はパイロットでしたが、戦後は航空自衛隊に入っていました。兄は私に「お前さんも自衛隊に来ないかい? しかしな、航空自衛隊になったら、英語がアメリカさん並みにできないと飛行機のパイロットは務まらないんだ」と言っていました。
 郷里を訪ねてみると、私は戦死ということになっていましたが、靖国神社行きにはならなかったようです。しかし、村では村葬をあげてくれたということです。母は私が飛行機で不時着したという知らせが入っていたので、戦死と言われても信用しないで、どこかに生きていると最後まで信じていたそうです。
 家内の方は、菅沼不二男さんたちが満洲でやっていた『民主新聞』の消息欄に帰国のことが出たそうで、それが筒井家の人たちにも伝わっていたようです。しかし、精しいことはなにも分からないので、中国人と結婚して中国人の亭主でも連れて帰ってくるのだろうかと噂し合っていたそうです。
 私は結局家内の実家のこの飯田の家を継ぐということで、ここに落ち着きました。しかし、帰ってから当分の間は食っていくのも大変でした。仕事がないので、土方仕事に出て行ってなんとか生活を立てていました。風呂もないので、ドラム缶に入っていました。底板を魚屋から買ってきて作り、それを下に敷いて入りました。小学生の子供が、それまで家に風呂がなかったけど今度できたというので、絵日記にドラム缶の絵を描いて学校に出したのを今でも覚えています。それから、それまでやったこともない果樹の栽培を始めることになりました。
 この頃には、国家公安調査庁と警察が2年ぐらいの間月に2回か3回来ていました。家内が一度激しく抗議したら、それから来なくなりました。」


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