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6 再び捕えられる

 百姓は我々に食事を出してくれるというので、案内されるままに部落に入っていきました。しかし、待てどもなかなか食事は出てこないのです。催促すると、もうすぐと言いながら出してこない。ついに業を煮やして我々はその家を出て歩き始めました。そうしたら、百姓が5、6人で飛びかかってきまして私たちを捕まえようとするわけです。必死で抵抗しましたが、数には敵わずついに縛り上げられてしまいました。
 もうすぐ日本軍に辿り着けると思っていたのが、また捕まってしまった口惜しさ、これはとても口で表現できるようなものではありませんでした。もうこれで永久に日本へは帰れない、異国の果てで殺されてしまうかと思うと、幼いころからの色々なことが、頭の中を駆け巡りました。
 百姓たちは、木でできた一輪車をもってきて、片方に私、反対側に谷口曹長を乗せて縛りつけ、護衛の民兵が20人ぐらい付いて凍った道をコトコトと根拠地の方へ逆戻りを始めたのです。そしてまた、八路軍の前線基地の隊長に引き渡されました。こともあろうに、その隊長は私たちが脱走したときの隊長でした。
 しかし、もっと驚いたのは、全部中国人の八路軍と思っていたら、一人の中国服を着た男が、「私は日本人民解放連盟の小島です」といって話しかけてきたのです。「日本の飛行機が不時着して日本兵が捕虜になったと聞いて、ここに駆けつけてきたら、脱走してしまったということでした。会えてよかったです。もう逃げないでください。根拠地には友達がたくさんいますから一緒に学習しましょう。」彼はそれだけ言うと、仕事があるからと言って姿を消しました。

 私たちは一度脱走しているので、警戒は厳重でした。前線基地を出てから、奥地へと行軍は続きましたが、何日目かにようやく根拠地に到着しました。そして、ここへ着いたら谷口曹長とも別々にされてしまいました。独房での捕虜の生活が始まりましたが、いつ取調べが始まるか、いつ殺されるか、そんなことばかり考えているのですが、一向に取調べがないのです。
 そうしたら、また日本人民解放連盟を名乗る人がやってきて、「傷の具合はどうですか」「日本軍のどこの部隊にいたのですか」と聞いてきました。私は、「傷のほうはだいぶよくなりましたが、部隊のことは言えません」ときっぱり断わりました。敵はこの日本人を使って取り調べを始めたのだな、いよいよ来たなと思いました。
 いつ処刑されるかということが、私の頭の中を絶えず堂々巡りしていましたから、彼らの示してくれる親切も素直に受ける気になどなれませんでした。日本人はここの食事は合わないだろうと言って、特別に小麦粉でマントウを作って持ってきてくれても、お礼を言う気にもなれませんし、顔を洗うように持って来てくれたお湯をひっくり返して、「殺すなら早く殺せ」と怒鳴ったりしました。
 しかし、その後も取調べらしいことは何もないのです。そんなある日、解放連盟の日本人がやってきて、「今日は正月休みで会食があります。八路軍から政治委員の方がみえますが、あなたも一緒に参加して下さい」と誘うのです。私は、解放連盟、解放連盟というが、一体どれくらいの日本人がいるのか、彼らは何をしているのか、一つ見てやろうという気になりました。そしてまた、この政治委員なる男を道連れに自決してやろうかとも考えました。
 会食にはお酒も出、料理も7,8品も出て、相当なご馳走でした。政治委員は挨拶してこんなことを言ってました。「中国の兵隊も日本の兵隊もみな労働者・農民の子弟です。日本の帝国主義者が両国人民を苦しめているのです。日本の人たちはいずれ祖国に帰って、日本の働く人たちを解放する重要な仕事があります。そのために、中国でうんと学習していってください。」
 私はそんな挨拶よりも、折あらば当番兵の持っている手榴弾を奪って、あの政治委員と一緒に自決できないかと考えていました。しかし、そのチャンスも来ませんでした。」


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