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――ご両親には結局それきり会われなかったのですか。

 「そうですね。昭和15年に入隊したときが最後になりました。だから、私のなかにある両親の顔は昭和15年以前のものです。
第118教育飛行隊の頃(南京にて。後列中央が筒井さん)
 南京には18年10月に到着しまして、南京第118教育飛行隊で戦技訓練をしましたが、それは第5航空軍司令部から派遣されたという扱いでした。そこで射撃訓練等の戦闘訓練をしまして、その後19年3月、第14教育飛行隊に転属になりました。この教育隊は普通には略称で「隼第15301部隊」と呼んでいます。その本部は北京にありましたが、私はその派遣隊の天津に行きました。南京にいたときは教えてもらう立場でしたが、ここ天津へ来てからは、今度は教育をする立場になりました。(この教育隊で私が教えた若者が特攻隊で戦死したことを、私は37年後知覧に行ってはじめて知りました。)

 そこから更に19年8月、唐山にあった第19錬成飛行隊に転出しました。この「錬成飛行隊」というのは、教育飛行隊でやっただけではまだ技術が足りないから、更に練り上げるという建前で設けられていた部隊です。」

3 不時着(前半)

――筒井さんが山東省で不時着されたのは、この第19錬成飛行隊にいたときだそうですが、そのときの状況を精しくお伺いできればと思います。

 「昭和20年1月15日のことですが、飛行機が足りなくなったので、南京の航空修理廠に行って隼戦闘機をもらって来い、という命令を受けました。それで、谷口曹長、本庄曹長、石田伍長と私の4人が、双発高等練習機(双練)に乗って唐山の飛行場を出発しました。
 私はこの頃は内務班長として、少年飛行兵たちに操縦を教えていましたので、出発に際しては、「私は南京へ行ってくるが、お前たちは飛行事故を起こさないよう一生懸命飛行演習をするように」と言って出かけていったのです。
 この頃は、すでにアメリカ空軍の本土空襲が盛んにおこなわれていましたが、アメリカ軍機はまた、航空母艦から出撃して、大陸上空を通過して、成都や昆明へも飛んで来ました。我々は途中済南に寄って状況を聞いたところ、敵機が済南方向に進攻中とのことで、慌てて避難しましたが、それでも無事南京に到着しました。
 南京は私にとっては懐かしいところです。第3飛行集団司令部や、第118教育飛行隊にいたとき、毎日飛行演習をやった土地です。だから、揚子江や周囲の山を見て「あ、南京だ」とすぐ分かりました。
 ところで、修理廠に行ってみると、敵機の攻撃を受けて、飛行できる隼がもうないと言うのです。困ってしまって、部隊のほうへどうしたらよいか問い合わせました。そうしたら、本庄曹長一人で漢口の修理廠に回って飛行機をもらって来るように、後の3人はすぐ引き返せ、ということでした。
 僕らの乗って行った双練という飛行機は無防備なのです。日中は敵機の出撃が多いから、午後4時ごろ出発した方がいいと言われて、その時間を待って出発しました。
 南京から徐州にかけて広々とした平野が続いていますが、雪で真っ白でした。やがて、済南の街が近づいてきたと思ったとき、急に滑圧計が下がり始めたのです。「あ、エンジンの調子がおかしいぞ」と谷口曹長が叫びました。済南まで飛べればよいが、あそこの手前に秦山というかなり高い山があります。この山を果たして片発で越えられるかどうか迷いました。


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