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山下好之氏 第4回:7.満洲へ〜8.通化から牡丹江・佳木斯へ撤退

7 満洲へ

 「この写真はその直後の45年10月に写したものです。冬服を着ていますが、八路軍では年に2回、5月に夏服、10月に冬服が支給されるのです。これは龍口というところに八路軍が大集結したときのものです。みんな武器を持っていません。船に乗せられたのですが、その時は行き先も分かりません。後で分かったのですが、みな満洲へ向かっていたわけです。
1945年10月、山東膠東軍区政治部敵工科(最後尾中央が山下さん)
 結局、遼寧省の安東(現丹東)に集結ということでした。しかし、船の数も多く何万人もの人数ですから、一つの港に入れないで、いろいろなところに分散して上陸しました。僕らは安東からずっと南の庄河というところに着きましたが、これがまた遠浅の海岸なものですから陸まで随分あるのです。膝上まで海水につかりながら、1キロぐらい歩いてようやく上陸しました。そこですぐ武器を渡され安東に向かいました。大連から安東までの地域はソ連軍と東北民主連軍の支配する地域になっていたのです。」


東北民主連軍
  戦争終結と同時に、共産党は各地の八路軍を東北地区(満洲)に送り込んだ。一方、満洲には日本の支配していた時代から抗日遊撃隊のゲリラ組織があった。このゲリラ組織と八路軍とが合体して、「東北民主連軍」が新たに結成された。山下さんたちは、その東北民主連軍に編入されることになったわけである。

  「46年の正月は安東で迎えました。ソ連軍の進入で、ここへ何十万という日本人が北から逃げてきていたのです。中には安東から朝鮮の新義州を経由して日本へ向かおうとした人もたくさんいました。僕らが入っていったときには、ソ連が出て行ったあとで、民主連軍がこの街を制圧していました。
  この頃は多くの日本人居留民が失業し、街に溢れていました。食べるものもないから、なけなしの財産を切り売りしてなんとか生き延びているといった人がたくさんいたわけです。それで、右翼の血盟団とか熱血団の連中が、共産党・民主連軍がけしからんのだ、これに抵抗せよといって、居留民を煽るのです。そのために民主連軍と日本の右翼や残留兵との衝突がたびたび起こっていました。僕らが入っていく前の45年10月24日には、安東西南20キロのところの三股流で八路軍と銃撃戦をやり、日本側が十数名の戦死者をだしています。また46年に入って熱血団の幹部が銃殺されています。
  国民党はまだ大部隊は入ってきていませんでしたが、スパイで入ってきて活動しているのがいて、それが日本の右翼の連中と結託したりしていましたから、民主連軍のほうも神経を尖らせていたわけです。



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