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山下好之氏 第2回:3.反戦同盟の根拠地大店へ〜4.日本労農学校

3 反戦同盟の根拠地大店へ

――上海で体験された生活と比べたら、あまりにも落差が大きすぎたと思いますが、しかし、山下さんはその後、日本労農学校にいらっしゃるわけですよね。その時期はいつ頃ですか。

 「44年の暮れです。山東軍区浜海地区の大店(だいてん)というところに日本労農学校の山東分校がありまして、そこへ行きました。しかし、そこへ僕らをやる八路軍側の説明は、「諸君をどうするかはここでは決められない、浜海地区は八路軍の山東軍区の本部であるから、そこに行って聞け」、という話だったです。だから行くまでは、労農学校があって、そこで勉強するなんてことは想像もしませんでした。
 船に乗っていた10人の中には、中国人1名、朝鮮人1名がいましたが、彼らは最初から外されていました。そしてまた残り8名のうち、年をとった人は、どこかで日本側に帰されたのでしょう、これも途中からいなくなりました。
 ところで、僕らの船が座礁した数日後に、朝鮮の仁川から青島に向かっていた日本の大型輸送船が同じような所で座礁しましてね、その連中も八路軍に捕まってしまったのです。これは僕らの船よりも大きな鉄の船で、機関砲もついているし、軍人も乗っていました。軍人、軍属合わせて20人ぐらいが捕まってしまったのです。末松千里さんもその中にいました。
 その連中と僕らが一緒にされて、若いものだけ15名、それに通訳が2名、銃を持った警備兵が3名、計20名が大店に向かいました。
 莱陽から大店までは2百数十キロはあったでしょう。僕らは、その間をすべて歩いたのですが、その途中至る所で日本軍による“討伐”を目にすることになりました。“討伐”と言いますが、その目的は略奪なのです。討伐は,焼く、殺す、略奪する、連行する、なのですね。僕らの移動している途中に、人間や動物が一緒になってワアーッと八路軍の支配している地域=根拠地の方へ逃げてくるのです。ああ、また“討伐”が始まったなと分かりました。村に火をつけて焼く。そうすると、犬、牛、馬、豚もいっしょになって根拠地の方へ走っていくのです。この頃は日本軍自身もあまり食糧が裕福でなくなっていましたから、こういったやり方で片端から食糧を調達していたのですね。
 そして、若者は連行していったのです。後で知ったことですが、僕がいた近くの高密で44年に連行された劉連仁さんは、北海道の炭鉱に連れて行かれ、あまりのひどさに逃げ出して、終戦後8年も山の中で生活していました。この前後に連行された人は3万8千人に上るということですが、そういった人たちは日本や満洲、ニューギニアなどの南方に連行されて行ったということです。
 この“討伐”を見て、いやひどいことをするもんだな、と思いました。どうも日本で聞いていたことと違うな、と思うようになりました。」


末松千里さん
 大分県別府の出身で、山下さん同様軍属として輸送船に乗っていたが、船の座礁で八路軍の捕虜となった人である。そして山下さんたちと一緒に労農学校に学び、反戦活動に加わった。終戦後は、東北地区へ行き、林彪の第四野戦軍に入って、軍と共に南下して海南島まで行った。現在は別府に在住。

治安地区と準治安地区
 日本軍が中国で支配したのは点と線であったとよく言われる。山下さんによると、この山東地区でも、日本軍が支配したところは、鉄道と県城のあるようなごく限られた拠点でしかなかった。そしてその外には広大な解放区(八路軍が実質的に支配している地域)が広がっていた。
 日本軍は拠点の周りに、治安地区と準治安地区を設けていた。治安地区は日本軍の管轄が届いている地域であり、準治安地区は両方の人々が行き来している地域である。つまり、治安地区の農民や商人も入って行き、また解放区からも人が入ってきて、両方が入り混じっているわけである。そして、その外には解放区があり八路軍の根拠地があった。ここはいつでも日本軍の討伐の対象になっていたのである。


 「済南と青島を結ぶ鉄道を膠済(こうさい)鉄道と言いますが、莱陽から大店まで歩いてくる途中、どうしてもこの線路を横切らなければなりません。ところが、この線路を横切るのが大変なのです。並大抵のことでは横切れません。この鉄道は地面から線路までの深さが4メートルぐらいあるのですが、降りていくと、幅が20メートルぐらいあって、その真ん中を線路が走っています。そして、線路の要所要所に一定の間隔で望楼(トーチカ)が作られていて日本軍が監視しているのです。」

――何のためにそういうことをしているのですか。

 「匪賊、つまり八路軍に爆破されないためです。しかし、そうやって防備していても、しょっちゅう爆破されるのです。爆破する目的は、八路軍が汽車に積んである積荷がほしいからです。それで、しょっちゅう爆破をやっては、積荷をかっぱらうのです。 
 ところで、莱陽から大店まで行く途中、この線路を越えたところで、僕ら15人の中の2人が逃げたのです。小休止をしたときに、スーッと消えました。鉄道線路があるから、日本軍が近くにいると思ったのでしょうね。末松氏の話では、逃げた一人は元宮城警察に勤めていた男だということでした。皇居の警察にいたが、海軍に召集されてこちらへ来たというわけです。
 八路軍の警備兵は、さあすぐに出発だ、と言いました。彼らの通報で日本軍が攻めてくる、というのです。それまで随分歩きましたけれども、またひたすら歩きました。その先の道というのは、大きな高い山が聳えていまして、手押しの一輪車ぐらいしか通れない道でしたが、そうした山道が延々と続きました。」


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