logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト


山下好之氏 第1回:1.上海〜2.八路軍の捕虜となり莱陽へ

  山下好之さんは1928年(昭和3)5月10日、山口県宇部市の生まれ。1944年(昭和19)4月、宇部の私立工業学校を卒業後、神戸の貿易会社「泰通商会」に就職した。
  ところが、入社1ヶ月にして会社の船もろとも軍隊に徴用され、上海の第一海軍軍需部に配属された。後で分かったことだが、泰通商会という会社は、太平洋戦争末期には、軍のために全国から船と人とを徴用することを仕事としていた会社であったそうだ。この時、全国から集められた10隻の船が長崎県五島の福江港に集結し、1週間かけて上海に到着した。
  上海に到着して4ヶ月目、第2回目の航海で、当時17歳だった山下さんは、中国共産党の軍隊八路軍の捕虜になってしまう。それから14年間、1958年(昭和33)に帰国するまで、中国に留まることになってしまった。その間の話を語っていただいた。

1 上 海

――17歳というのはまだ少年ですね。そういうお歳で上海にいらっしゃったわけですが、上海にはなにか日本とは違うものを感じられましたか。

  「僕が行った昭和19年ごろには、日本ではもう物が何も手に入らなくなっていました。ところが、上海に行ったら何でもあるのです。僕らは好きなときに酒保(軍隊のなかで日用品や食料品を販売しているところ)を利用することができましたから、タバコは朝日、光、などがいくらでも手に入りましたし、大福餅、寿司、サイダー、ビール、酒、なんでも自由に買うことができました。日本では想像もつかないことでした。
  船員の食糧も切符を持ってゆくと、船員全員の何回分かの肉や魚をまとめて冷凍倉庫から出して支給してくれるのです。必ず余るようになっていますから、それをジャンクで船に横付けしてくる中国人ブローカーに横流しをしていました。そのついでに、船の重油や古いロープ、不用品なども適当な値段で彼らに横流しをしました。その収益金は、船長、甲板長の指図で山分けし、そうして入った小遣いは花札賭博や慰安所通いに使われていたのです。
  第一海軍軍需部は、今の上海テレビ塔の向かいに当たる位置、外灘(ワイタン)を歩いてゆくと蘇州河を渡った黄浦江沿いにありました。この蘇州河を少し遡って行った所に日本租界虹口区がありました。ここの日本人の家々の玄関には電灯付きの提灯が掛けられていて、戦争の雰囲気などはまるで感じられませんでした。
  上海の街というのは、賭博、阿片、淫売の巣窟だと言われていました。日本租界にも「月の家」という置屋がありましたし、「野鳩」と呼ばれる夜通し道で客をつかむ女性も立っていました。一歩路地裏に入ると、阿片窟が林立していて、道端で寝転がって吸ってる人も見かけましたし、また外灘の裏通りなどには白系ロシア人の娼婦などがたくさん立っていました。まあ17歳の少年にはカルチャー・ショックが大きかったですね。」

第一海軍軍需部があった辺り(写真は現在の上海)
  「第一海軍軍需部での仕事は、上海を基点にして、各地の港に日本軍の武器・弾薬等の軍需品を運び、帰りには当地の産物を積んで引き返す、といったものでした。僕の初めての航海は、江蘇省の連雲港というところへ武器・弾薬・缶詰・食用油・毛布等を届けることでした。そして帰りにはそこの綿花・小麦・鉱産物・葉煙草等を積んで無事引き返してきました。
  船の積荷を上げ下ろしする作業はみな中国人の人夫がやるのですが、揃って薄い黒色の衣服を身に着けた連中ばかりなのです。聞いたら皆囚人だということでした。第一回の航海から帰ってきて、荷物を岸壁に下ろす作業を見ていたら、白い砂糖のかたまりが落ちていたのを数人の人夫が摑み取りをしているのです。そこへ見張りの男がきて鞭でその人夫たちを殴りつけていました。
  荷下ろしが終わりますと、黄浦江の上流に江南造船所というのがありましたが、船はそこのドック行きとなり、2週間ぐらいかけて船床の水漏れなどの修理をします。そのドックに入っている間にも、近寄ってきた手漕ぎのジャンクに不用品と称して古道具や重油を売り捌いて小銭を稼ぐのです。これらの小船のなかには幌をかぶせたものもあり、その中では淫売も行われていました。しかし、昼間は警備艇が定期的に巡回しているので危なく、少し薄暗くなってから行われているようでした。」


文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 2007 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.