logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト

 中共に信頼を寄せている石黒夫人であったが、さすがにこれらの荷物だけは半ば諦めていた。荷物は内戦が終結した2年後の1949年になって、山東省から東北の安東に送られて来た。そして、そこからそれぞれの現住所へ届けられたのである。石黒家はこのとき瀋陽にいたので、荷物は瀋陽まで送られて来た。ただ、一番よい衣類を入れていた行李が1つだけ足りなかった。ところが、同じく瀋陽にいながら、橋本、安孫子ほか数人のところには荷物が1つも届かなかった。
 そこで関係者が集まって調査をしたところ、すべての荷物は1つの洩れもなく山東省から安東へ送られてきたことが分かった。さらに調べると、安東で政治指導員をしていた若い日本人・矢部が、それらの荷物の中から金目になる布団や着物類を安東の露天市場で売却し、その金を着服していたことが判明した。
 政治指導員というのは、日本人社会を取りまとめ、日本人の政治意識を高めるために、中共から任命されている日本人である。彼らは、共産主義者として日本人の前に立ち現れ、"思想的に後れている"日本人を教育しようと盛んに政治学習会を開いた。そしてしばしば個人を槍玉に挙げて糾弾する"糾弾集会"を開いたりした。戦後満洲に残留した人たちの、この政治指導員の人たちに対する評判は、概して芳しくない。

 石黒たちが大栗子に来た頃、長期の移動の疲れや気候風土の変化が重なって、どこの家の子供たちもみな下痢が続き治らなかった。ピンズというトウモロコシの粉を油で揚げたものが主食であったが、子供たちはみんな消化不良を起こしてしまっている。子供たちの衰弱して行く様子に、親たちは気が気でなかった。このまま放置しておけば、最悪の事態に至るかもしれない。そこで、日本人のグループが集まって相談した結果、「病気の子供たちのために、お米のお粥を支給してもらえないでしょうか」という嘆願書を中共側に提出した。
 中共側では上級幹部を含めて、次々と許可の印を捺してくれた。ところが、日本人の政治指導員が最後に「否」の印を捺して返ってきたのである。みんなは諦めきれないで、数回嘆願に行ったが、やはり駄目であった。この政治指導員が矢部であった。
 困り果てたお母さんたちは、若干の借金を中共政府から受けて、そのお金で米を買い、弁当箱でおかゆを作り子供に与えた。しかし、その米もすぐなくなり、粟がゆをガーゼに漉して与えたりした。

 石黒夫人が特定の個人に対して憤慨し難詰しているのは、彼女の著書のなかで、この矢部という政治指導員一人である。

 「その若い矢部という政治指導員を私はいまだに忘れることは出来ない。同じ日本人でありながら、何と浅薄な心の持主なのだろう。独身の彼とはいえ、子どもに対する情愛などかけらもない矢部を、私たちはどんなに怨みに思ったかしれない。」(同上書、137頁)

 こうした経緯があったうえに、矢部は、山東から送られて来た日本人の荷物を横取りし、売り捌くという、悪質な犯罪を犯していたのである。みんなの怒りは倍加し、彼をさんざん吊るし上げた末、日本人が発行している『民主新聞』に自己批判と謝罪の文章を書かせた。ほどなく、それは新聞に大きく掲載され、彼は面目を失い失脚した。

 話を山東における逃避行に戻そう。移動は、昼間は敵の機銃掃射を受けるため、夜間になることが多かった。ようやく眠れたかと思うと、真夜中、移動命令で起こされるというような日が続いた。ことに石黒家のように、小さい子供4人をふくめた家族7人が毎日、荷物をまとめては移動をつづけることは、ほんとうにたいへんだった。

 日中は日中で、敵機の機銃掃射を受ける危険に直面した。

 ≪昼間、トラックで移動をしていたとき、見張りをしていた中国兵が突然叫んだ。
 「飛機来!」(飛行機が来た!)
 と、低いが鋭い声がするやいなや、まだすっかり止まっていないトラックから真先に飛び下りたのは、小学1年生の正範だった。田舎道の両側が溝のようになっている低い潅木のところへ身をかくすようにして本能的に伏せていた。勿論怪我一つしていない。まったくすばしっこい動作には、大人たちが舌をまき、ただ驚くばかりであった。≫(同上書、105頁)

 石黒正範氏談「機銃掃射はすごく怖かったですね。飛行機が低空飛行でやって来ると、道路端が溝になっていましたから、そこにもぐり込みました。飛行機が去ってから次の村へ行くと、やはりそこも爆撃でやられていました。
 こういう爆撃が道中で何回かあると、先のほうに黒いものが見えただけで、トラックの上から跳び下りてしまうのです。私のような小学一年生の一番ちっちゃいのが真っ先に跳び下りてしまう。
 あるときなど、黒く見えたのはトンビだったと分かって、ばつが悪くなり、「小便しに下りたんだ」とごまかした記憶があります。」

 石黒夫人の回想記を見ていると、機銃掃射を受けて、かなり危険な場面もあったようである。

 ≪私の乗った馬車は先頭を走っていた。夫や母や子供たちは2台目と3台目に分乗していた。私の馬車には橋本夫人と五十嵐さんの子供さん、洋子、武朗は私の膝の上に抱かれていた。
 この移動馬車隊を国府軍の飛行機がついに見付けたらしい。機銃掃射をはじめた。みなおどろいて、馬車を止めて、道の脇に分散して伏せた。
 私は馭者に「止めて、止めて」と叫んだが、先頭の私の馬車はなかなか止まらない。馭者が仰天したのだろう。止めないで走りつづけている。私はしかたなく武朗を抱いたまま、走っている馬車から飛び下りた。つづいて橋本夫人も白いお骨の包みを抱いたまま飛び下りた。
 私は重い人形のような病後の武朗を、低い茂みの潅木の木陰に寝かせるように置き、走って馬車をおいかけた。大分先の方に馬車はようやく止まっていた。馬車に残された洋子が、恐ろしさにおびえて「ワアーワアー」と泣いていた。少し大きい五十嵐さんの子供は泣きもしないで、おとなしく腰掛けていた。2台目の馬車に乗っていた夫は正範とすばやく潅木の茂みにかくれたが、其処も危なく思われて敵機が旋回した隙に夫は正範をかかえて走り、岩下の安全な場所に息をひそめた。夫や母や東洋の姿も捜したが、みなそれぞれの場所に伏せていて、何処にいるのか見つけ得なかった。
 飛行機は2,3発威嚇的に掃射しただけで飛び去って行った。≫(同上書、105~106頁)

文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 20072009 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.