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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第24回

29	山東半島脱出
 「鶴村の生活は、平和そのものであった」と阿部は書いている。わずかな期間であったが、阿部・井口の両家族にとっては、山東に来て初めて味わう快適な生活であった。台湾出身の林青年がかいがいしく世話をしてくれるうえ、さらに勤務員の少年を一人付けてくれたので、手回りの雑用にも事欠くことがなかった。
 ここへ来てから、新四軍の制服をあてがわれ、出歩く際にはそれを着て外出した。村人たちと出会うと彼らはお愛想笑いをし、頭を下げるが、決して制服を着た人間に近づこうとしない。受ける感じが冷たいのである。阿部は、「老百姓たちが、中共人たちに畏怖している様子が吾々にはよく解る」と観察している。

 2人が建設大学の学生たちに講義を開始したかどうかについては、まったく言及がない。9月に入って、戦況は共産軍にとってますます不利になってきていた。海陽にも国民党軍が近づいており、戦場が非常に近接してきているのである。このあいだ彼ら2家族が通過してきた莱陽もついに国民党軍の手に落ちたらしい。『中華民国史事紀要』1947年9月16日の条には次のような中央政府への電文報告が見える。
 「国軍の先頭部隊はすでに莱陽近郊に到達し、莱陽附近の重要拠点はすべて国軍の制圧するところとなった。」
 この情報が南京の国民政府に伝えられた2日後の9月18日、莱陽は国民党軍に陥落した。

 9月21日、李亜農校長自ら突然訪ねてきた。国民党軍が鶴村から約12キロのところまで攻めて来たため、この地を撤退しなければならなくなったというのである。「誠にお気の毒ですが、明日早朝にこの土地を一緒に立ち退きたいと思いますから、荷物を今日中に取りまとめておいていただきたいのです。」そう言って彼は帰っていった。
 しかし、情勢は刻々と動いており、予想以上に早く危険が迫って来たため、明朝まで待てなくなった。結局、その夜の出発となったのである。荷物と女子供を慌ただしく馬に乗せ、男は歩いた。雨の降る漆黒の闇の中を、どこへ向っているのかわからないが、ただ黙々と付いて行くしかない。遠雷のように砲声がときどき聞えてくる。
 夜明け近く、大きな村落に到着した。明るくなって初めてわかったが、延々数キロにわたる人馬と荷物の長蛇の列のなかに入って進んできたのである。彼らは建設大学の教授、職員、および2千名の学生であった。
 村に着いた学生たちは、この村の百姓たちの息子となったり、弟、妹になったりする変装に余念がなかった。これらの学生たちは全部南方人なので、国民党軍に捕まって取り調べを受けたとき、山東人になる練習をしているのである。しかし、やはり若者である。この命がけのスリルを楽しんでいるかのように、変装に打ち興じていた。

 この日の午後、李校長が林君を伴って阿部と井口それぞれのところにやってきた。2家族に対し、ある山奥の洞窟に隠れてほしいというのである。撤退の速度が速まって、老人や子供連れでは、とうてい彼らといっしょに行動できないと判断したようであった。
 阿部は言われるままに応諾したが、井口は、洞窟に入ることはそのまま見殺しにされることだと思い、しばらく考えさせてほしいと言った。しかし、結局は李校長の申し出に従った。その洞窟の在り場所は山奥に住むたった一人の古老だけが知っているという。まるで冒険小説のような話である。彼らはもと来た道を引き返すようにして、その古老の住む山奥の一軒家に案内され、その晩はそこに泊った。
 ところが、翌日林が現れて、「洞窟に入ることは中止になった、大至急、盤石店に来られたし!」という連絡を持ってきた。戦況が好転したのかと思ったら、その逆で、むしろ甚だしく不利になったというのである。
 山を下って行くと、夥しい数の新四軍の兵士たちが盛んに蛸壺のような穴を掘っては何かを埋め込んでいる。林が、「足元に気をつけてください、地雷を埋め込んでいるのです。・・・1時間後には敵の部隊がこの道を通過するはずなんです」と言った。下りきったあたりから砲声が殷々と響きだした。敵はかなり接近してきているようだ。
 日がとっぷり暮れたころ、彼らはようやく磐石店に着いた。李校長が彼らに告げた。

 「国民党軍の攻撃は意外に執拗で、我々はこの山東半島を放棄しなければならないかもしれません。中共の幹部は、目下威海衛から船で満洲の安東に渡っています。今夜、建大の幹部とともに出発してください。」

 国民党の軍艦が、海上を封鎖して見張っているところを突破する――命がけの行動に出るというのである。
 このとき阿部は、李から、「関谷(阿部)先生の御家族は、北鮮に居る兄(李初梨)と連絡して、日本にお帰しします。」と言われたと語っている。"家族を日本に帰す"ということが、ここで突然出てきて唐突の感を受けるが、李と阿部とのあいだでこの件について事前に何らかの話合いがなされていたのであろう。
 「船に乗る! 海を渡る! 日本に帰る! 夢見る様な、あわただしい一分一秒である」と、阿部はそれを言われたときの興奮振りを著書に記している。

 磐石店から威海衛に向うトラックは3台しかないので、荷物を最少限にしてほしいという。阿部は大連から山東に渡るとき35個の荷物を持ってきた、今大連に引き返そうとしているが、彼の家族の荷物はわずかに3個だけになった。しかし、そんなことは日本に帰る喜びの前にはなんでもなかった。
 井口のところでも、荷物を減らすのに手間取っていた。すると、夫人が、「あなた、もう命さえあればいいわ! 大きな荷物はみんな捨てて行きましょうヨ」と言ったので、ふんぎりが付いた。
 3台のトラックは、中共の幹部や建大の教授およびその家族で鈴なりになって出発した。威海衛までは200キロの道のりであるという。しかし、おんぼろトラックはおそらく時速10〜20キロ程度のスピードでしか走れなかったのであろう。夜通し走り、昼間は爆撃があるので休み、2日目の夜遅くようやく目的地に着いた。


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