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インタビューリスト


6 終戦

――終戦のときは、どういう状況でしたか。

 「膠東に戻ってしばらくして、日本が負けたことは聞いていましたが、情勢は一向に変わりませんし、戦況も全然変化が見られませんでした。それというのも、支那派遣軍の総司令官だった岡村寧次が「日本は負けたけれども武装解除はしない。蒋介石が来るまでは決して武装解除するな」という通達を出していたからなのです。
 だから8月15日がきても、北支の日本軍は戦争をやめないで依然として頑張っていました。
 終戦から1月ぐらいたった45年の9月ごろでしたが、膠県の近くに南村というところがあり、このあたりで僕らの武装工作隊のグループ5人が、宣伝ビラを準備したり壁に標語を書くための石灰を溶いたりしていたのですが、その時突然包囲されてしまったことがありました。」

――日本軍にですか。

 「日本軍か保安隊(傀儡軍)かわからないです。銃声がして、「あ、これは包囲されたぞ」と分かって、逃げろということになったのです。1キロ先には解放区があるので、そこまで行けば助かるから必死で駆け始めたのです。畑の中を一人が先頭を走り、その後を僕ともう一人の仲間が走っていました。隊長ともう一人は元のところに残ったままでした。ところが、僕とほぼ平行して走っていた仲間が撃たれて倒れたのです。僕は走りながら、「あ、やられたな」とわかったけれども、自分が逃げることに精一杯で、一目散で走って解放区まで逃げました。解放区に着いたときは、僕は息が切れて意識を失ってしまいました。後で聞いたら、担架に乗せられて根拠地に運ばれたということでした。
 結局、先頭の男と僕だけが逃げ延びて、あとの3人はやられたか捕まってしまったようなのです。その3人の消息はその後もまったくわかりませんでした。その人たちが今生きているかどうか、僕は知りたいのです。」

――そのグループには、山下さん以外に日本人はいなかったのですか。

 「みな中国人です。もし生きているとすれば、ぼくと同じ80歳前後ですね。」

 「やはり終戦から間もない10月ごろのことですが、芝罘(チーフ。現煙台)で、柴山大隊長ほか2名が八路軍に捕まったことがありました。なんでも、視察に出たところを捕まってしまったそうです。柴山大尉は山東半島のこの一帯を指揮している大隊長です。僕は支部から言われて、柴山大尉のところへ説得に行かされたのです。
 僕は柴山大尉に、「八路軍のなかには日本軍の捕虜がたくさんいますが、殺されたり虐殺されたというようなことは一切ありません。それどころか非常に優遇されています。ですから、あなたたちも投降してくるならば、絶対に安全を保障します。それが八路軍の方針なのです」と懇々と話しました。
 こちらは、大隊長を反省させて、我々の味方につけようなどという大それたことは最初から考えていませんでした。そもそもこういう大隊長のような筋金入りの軍人は、考え方が変わるはずはないのです。こちらの目的は、「そのうち八路軍が必ず攻めていきますが、負け戦だと思ったら、そのときは抵抗したりしないで武装放棄して投降してください」、と勧めることにあったのです。八路軍は柴山大隊長にご馳走をして日本の部隊に帰しました。
 この辺りには山東縦隊という八路軍の強力な正規兵がいました。縦隊というのは大体1個師団(1万人)ぐらいの兵力を持っていました。最終的にはそれがこの一帯を制圧したのです。その時柴山大隊長がどう対応したかは分かりませんが、僕は八路軍の宣伝をした効果は少しはあったのではないかと思っています。」


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